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【歴史探訪】大仙古墳は無用の長物?

僕は歴史好きを自称している。
そして、今大阪に住んでいる。
なのに、大仙古墳に行ったことがない。

この事実は年を追うにつれ、家に紛れ込んだ蚊のように、僕の心の平穏脅かし続けていた。

行こうと思えば1時間少々で行ける距離。
なのに今まで行かなかったのは、ひとえに古墳時代に興味が無かったからだ。

だが、そろそろ蚊のストレスにも耐えがたい。
それに、今年末に関西を離れるとなると、やり残したタスクは無くしたい。
というわけで、重い腰を上げ、ついに大仙古墳に行ってきた。


大仙古墳とは

大仙古墳は、大阪府堺市にある日本最大の古墳である。
その長さは約525m、高さは約40mと、世界的に見ても最大級の陵墓らしい。

陵墓ということは、誰かのお墓である。
大仙古墳は日本の第16代天皇である仁徳天皇のお墓であると言われている。
古墳の大きさは権力の大きさの象徴であり、これだけの巨大なお墓を作れるのだから、相当な大物であったことが窺える。

仁徳天皇といえば、領国の民家から煙が立ち上っていないのを見て「みんな飯も作られへんほど困窮しとるんか」と嘆き、3年間租税を免除したエピソードが有名である。

大仙古墳造設の目的は諸説あるが、それほど民を想った名君なので、こんな無駄に大きなお墓を作る労役を民に課したのも、きっと民に食い扶持を与える目的もあったんじゃなかろうか。
決して、先代よりもでかい墓作ったるでー!とか、最近の流行りに乗らなダサいでしょ。みたいな私利私欲からの搾取ではないのだ。決して。

また、その立地と当時の外交事情から、国防の施策として大阪湾に船でやってきた中国人に日本の国力を見せつける目的もあったのではないかと言われている。

高さ40mといえば、ウルトラマンくらいの高さである。
ビルにすると10階くらいなので、当時は海からもよく見えたのだろう。
それに当時は木も生えておらず、葺石に覆われ埴輪も並んでいたそうだから、さぞかし威容だったろう。


いざ大仙古墳へ!

大仙古墳の最寄り駅は、JR阪和線の百舌鳥駅である。
この周辺は百舌鳥・古市古墳群として、世界遺産にも認定されている。

古墳群の名の通り、この周辺には大小たくさんの古墳が点在している。

少し歩けば古墳が出てくるといった状況で、
実際、百舌鳥駅を降りて大仙古墳の方へ歩いていくと、ものの3分くらいで

突然こちらの収塚(おさめづか)古墳が現れる。
こちらの古墳は大仙古墳の陪塚とされている。

収塚古墳からまた少し歩くと、百舌鳥古墳群ビジターセンターなるものが現れた。

せっかくなので寄ってみると、結構新しい施設で、古墳の概要や鳥瞰図なども見ることができる。
トイレもきれいなので、散策する際はここで用を済ませておくのがオススメ。


ビジターセンターを出るとすぐに、大仙古墳の拝所がある。
鳥居の奥に見えるのが、大仙古墳の前方の方である。

長年の疑問で、前方後円墳というけど前円後方墳の方が正しくない?と思っていたが、きっとこの拝所が正面なので、ここから見て前が円墳、後ろが方墳ということだろう。

ちなみに、大仙古墳はこれ以上中には入れない。
天皇のお墓なので宮内庁管理で、発掘も禁止されているらしい。

この濠を掘る際に発生した土を使って古墳は作られたらしい。

お堀の水は恐ろしく汚い。
生き物は水面のアメンボくらいしか見つけられなかった。

こんな立派な濠と盛山があれば、中世なんかは要塞として用いられてたんじゃないか?
と思ったら実際に三好氏が城として使っていたらしい。


大仙古墳の拝所から、道路を挟んで反対側には大仙公園が広がっている。
この公園の中には堺市博物館があり、大仙古墳や堺の歴史を学ぶことができる。
ちなみに入館料は一般で200円。安い。

いざ博物館へ。

館内は撮影可能エリアも多く、たくさんパシャパシャしてきた。

埴輪。かわいい。

大仙古墳ができた当時はこれらが稜線に沿ってずらーっと並べられていたらしいから、ものすごい人手がかかっている。
そう思うと、始皇帝陵の兵馬俑ってやばい規模感だな。

堺市博物館にはこのような古墳の副葬品が多数展示されている。
大仙古墳のメインの埋葬施設に関しては、天皇陵ということで展示はもちろんされていない。
が、1872年に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊して埋葬施設が露出した際に発掘調査が行われ、石室と石棺の絵図面が残されている。

その絵図が埋葬品を知る数少ないヒントであり、絵図から復元した長持型石室のレプリカも展示されていた。


そして、堺といえば有名なものがもう一つ。火縄銃である。

戦国武将の命運を分けた当時の最新兵器である火縄銃。
その一大製造拠点が堺であった。

堺は当時、海外貿易の拠点であり、モノ・カネ・情報の集まる都市として繁栄した。
外部から守るために都市は環濠で囲まれ、日本のベニスとあだ名されるまでに至った。

その発展の一助となったのが、火縄銃の製造である。
当初、ポルトガルから種子島に伝来したが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得。弓矢に代わる鉄砲は戦国大名にとって戦いの勝利に欠かせない戦力であったため、堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となったのだ。

改めて見ると、火縄銃のその造形美に息をのんだ。
すーっと伸びやかな銃身に、なめらかに腰を折った持ち手。そして金属部に施された繊細な装飾。
当時の職人の技術と矜持を感じざるを得ない。



堺市博物館を出て、次は大仙公園内にある日本庭園へ。

ここも入園料200円。安い。

この庭園は堺市制100周年を記念して作られたもので、1989年にオープンしている。
なので、歴史はあまり関係ない。

奥に見える塔は戦没者の忠霊塔

日本庭園に詳しい人であればさぞ楽しめるのであろうが、あいにく僕はそこまでの深い知識を持ち合わせていない。
歴史の宿らない日本庭園にはあまり価値を感じられず、早々に出てしまった。まあ、200円だし。


そして、大仙公園を少しぶらついて、帰路に着いた。

帰り道の途中、また古墳を発見。
こちらも大仙古墳の陪塚で、竜佐山古墳。

ちなみにこれ以外にも、博物館の向かいには孫太夫山古墳がある。
一瞬で4基の古墳を観れるというのは、やはりすごい密度である。


最後に

古墳は全国に16万基以上あると言われている。
これはコンビニよりも多いと言われる歯医者よりも多い。

古墳の大きさは権力の象徴である。
上記の通り、中国の使節に対して「我々はこれだけのものを作れる技術と動員能力があるぞ」というのを見せつける目的もあったとされている。

だが、そんな古墳作りブームに終わりを告げたのは、中国から伝来した仏教だと言われている。

死者よりも生者に目を向ける仏教。
そんな仏教の思想からすると、こんなバカでかい古墳を作るより、現世利益のために寺や大仏を作ろうとなるのは自然な流れである。
仏教の伝来により、古墳はまさに無用の長物となってしまったのかもしれない。

中国に威容を見せつけんと作られた大仙古墳。
その姿は当の中国人にはどう映っていたのであろうか。




これでとりあえず大仙古墳に行くというタスクは完了された。
残りタスクは、長谷寺に行くのと御嶽詣をすることくらい。

だったのだが、新たな場所に行くと付随して行きたい場所が増えてしまう。

今すごく行きたいのは、今城塚古墳だ。
ここは継体天皇陵とされているのに立ち入りが許されている珍しい古墳で、埴輪が並んでいる姿も愛おしい。
近所の石清水八幡宮とセットで訪れたいと思っている。

そして、狭山池にも行きたい。
行基が作ったとされる狭山池には、この時代の灌漑設備の遺構があるらしい。
そして博物館の建築家は安藤忠雄。
ぜひカメラを持って出向きたい。


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