『とはずがたり』後深草院二条 佐々木和歌子訳 究極の「自分語り」
今からおよそ750年前の鎌倉時代中後期。
ある女性によって日記形式の随筆が書かれました。
しかし、それは誰に知られることもなく宮中に保管され続け、1940年、国文学者・山岸徳平によって発見、世に紹介されました。
誰に問われるまでもなく自分の人生について綴ったー、その随筆こそが『とはずがたり』です。
『とはずがたり』のザックリとしたあらすじ
主人公(作者)は、後深草院(1243-1304)に4歳の頃から仕え、寵愛されてきた女房の一人、二条。
二条は容姿や家柄、和歌を詠むセンスに長けており、後深草院(=御所さま/4歳で即位し17歳で退位した元天皇、このとき29歳)の格別の扱いは、ときに正妻(東二条院)をしのぐほどでした。二条自身もそれを自負しており、一目置かれる立場は女房兼愛人といったところでしょう。
しかし、二条の恋のお相手は御所さまだけにとどまりません。初恋の相手(雪の曙・あのひと)や、イヤよイヤよと思っていたけれど惹かれていく相手(仁和寺の阿闍梨・有明の月・法親王)、さらにはホントにイヤな相手(近衛の大殿)らとも情事を重ねます。
しかも、後深草院はそれを黙認したり、手引きをすることさえあったのです。で、嫉妬してイヤミまでいうのです。
妊娠、出産もしましたが、ひとりとして自分の手で育てることが叶わなかった二条。
そんな二条は、後深草院の弟、亀山院と関係を持ったことがバレ、正妻、東二条院の毛嫌いされ、御所さまにも庇ってもらえず宮中を追われることにー。(ここまでが前半の1.2.3章)
そして二条は、出家し尼僧として旅に出ます。
鎌倉や善光寺(長野県)、伊勢、厳島(広島県)などを巡りながら、疎遠となった後深草院への思いや、宮中での日々を思い起こす孤独のなか、誰に問われるまでもなく自分自身を書き綴ったのです(後半4.5章)。
二条の「自分語り」をどう読むか
私は正直「イヤな女」と思いましたよ、二条のことを。
容姿も家柄も良く、センスもある、和歌もうまい、トンデモなくモテる。
で、それをちっとも包み隠そうとはしない。というか日記なので何を書こうと自由なんですけどね。
「自分語り」は現代でもヘタをすると大惨事になります。自身の恋愛や離別を赤裸々に綴れば、興味本位に読まれることは避けられず、ブログやSNSでは見ず知らずの人からクソ(スイマセン)コメントが飛んでくることもあるのですから。
幸か不幸か750年もの間、誰の目にも触れることがなくクソコメントを浴びることのなかった『とはずがたり』。こうして今、私が読んでいるのも何かの縁。なぜ二条はこんな「自分語り」を綴ったのでしょう。
宮廷の恋愛ものといえば紫式部の『源氏物語』です。この『とはずがたり』の中にも源氏物語への憧れやオマージュがうかがえます。
しかし源氏物語が書かれた平安時代と違い、世は鎌倉、武士の時代。宮廷文化は廃れ、争いごとの多い世情にあっては、風流に恋物語を語る気分にもなれなかったのでしょう。それよりも自分の内面を見つめなければ、自分の思いを綴っておかなければー、そう思ったのかもしれません。単なる「自分が大好き!」とは違うのです。ぜーんぜん違うのですっ!
30歳代で尼僧になって旅をする後半は、何度もグッとくるものがありました。あのイヤな女、二条が、ウウッ......。
ただ書きたかった、それだけのこと。
って、むちゃくちゃカッコイイやん! 天才ブロガーやん!
現代語訳で読む古典の面白さ
訳者(佐々木和歌子氏)の解説によると、『とはずがたり』は、写本が1本しかない「天下の孤本」と。明らかに抜け落ちている部分もあって、二条が書いたそのままが残っているわけではなく故意に切り取られた部分もあると考えられています。たしかに、これだけ自分語りが好きな二条が、出家のシーン(3章と4章の間に相当)を書かないわけがない。
昭和15年に発見され、戦後にようやく日の目を見ることになりましたが、創作部分も多いのじゃねぇか? いや、二条は実は存在しないんじゃねぇか? という説まであるらしい、存在そのものが数奇で面白い『とはずがたり』なのです。
古典文学というと、とっつきにくい印象がありますが、「光文社古典新訳文庫」なら問題なし。「モダン」とか「ユーモア」といった横文字も登場する現代の言葉で書かれていて、非常に読みやすくなっています。和歌の解説も丁寧で、二条というよりも訳者、佐々木和歌子氏の言葉のセンスに感服します。
荒れる世の中だからこそ確固たる自分を持っておきたい、その思いは今の私たちと変わらないな、と二条を身近に感じる『とはずがたり』。
ぜひ、お楽しみください。
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