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奇縁。コロナが明けて読む『たちどまって考える』 ヤマザキマリ

2024月4月25日

というわけで、さっそく読んだ。

結論から言うと、想像していたようなコロナ禍の日常をー、って話ではなかった。結構ガッツリと「日本はー、」「イタリアはー、」と主語が大きな語り口で、たぶんコロナ禍に読んでたらモヤモヤしただろうな、もしかしたらぶん投げていたかも、と思った。

ま、そうなってしまったのがコロナ禍。「不要不急」とか「自粛警察」とか、最近すっかり聞かなくなった言葉たちの現役バリバリな感じが懐かしい。

ある日息子さんに「フェイスブックの投稿が異常に多い」と指摘されたという(ナイス!息子さん)ヤマザキマリさん。その集中力もっと読書や映画にあてたほうがいいと思い名作映画を見直したと。

日本は鏡に映し出されたそのままの自分ではなく、他者が「あなたってこんな人」と象った自分を自分自身だと思い込む傾向が殊更強い社会だと常々感じています。そして新型コロナウイルスの出現によって、他者という鏡を見られなくなってしまった私たちには、「自分と向き合わざるを得ない時間」が格段に増えました。鏡を失って戸惑う人もいるとは思いますが、ここらで自分自身の力で、自分というものを知ってみるのはどうでしょうか。映画や本や音楽は、自分で自分を知るための鏡としては最高の素材になります。

『たちどまって考える』

たしかに。ま、その映画に関しても「年間何本見た」だの「これを見ていないのに映画好きとは言えない」だのと”他者鏡”をおっ立ててしまう日本。いや、めちゃ主語がデカくなってしまった。

終戦後しばらくの間、日本では文化的に非常にハイスペックな作家や映画監督たちが活躍しました。鑑賞する側も、特にインテリというわけでなくても、人間をとことん見つめた遠藤周作の小説などを読むのを普通のこととしていた。三島由紀夫が婦人向けの雑誌に連載、執筆しているような時代でもありました。
 文化の熟成がそれだけ進んだのは、戦時下で見て経験した現実を、同じ問いを繰り返すように自分の中で何度も考え、咀嚼し、作品として昇華した人がいたからです。<中略>不条理な状況下で多くの人が避けて通ろうと思うようなことも含めてすべてに向き合い、吸収したから。不条理のもとでしか育たない感性があるのだと思います。

そういえば、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』(1962年)を見たときに、あまりにも難解でこれが公開当時日本で大ヒットしたというの驚いた覚えが。

映画『太陽はひとりぼっち』

きっとアラン・ドロン人気で『太陽がいっぱい』(1960年)と同じように思った人がー、と思ったのだけれど、当時を知る人に「こういう難解な映画を”教養”として見る人が多かったのですよ」と教えられた。

そうか。不条理なもとでしか育たない感性、そういうことか。

先の見えない(見えなかった)コロナ禍では様々な情報や言葉に右往左往した。「自分の頭で考える」とはよく言うけれど、自分の考えがホントに自分の”辞書”から出たものか怪しく危うい。

失敗や無駄はないほうがいい、あってはならないという空気の中では、自分自身ではなく、他者や社会の意見に倣うほうがコスパもタイパもいい。
けれども、「人生は思い通りにはならない」

身も蓋もない一言だけど、この本を読んで、コロナ禍を思い出して、この言葉が大きな意味を持って頭の上に落ちてきた。

コロナ禍では自粛に傾いた圧力が「コロナ明け」の今、開放にはたらいている。楽しまなきゃいけない、盛り上がらなきゃいけない。
海外からの観光客の日本賛美を誇らしく思う。毎年満開になる桜に今年も陶酔する。大谷選手の活躍に胸が熱くなる。

いや、ならない。なってない。ぜんぜんなってないよ。
だって、たちどまって考えたのだから。



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