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脱!原作信奉 映画は想像を超えた「解釈」や「表現」を楽しむべし

ちょっと前に見た映画『マクマホン・ファイル』が意外な波紋を広げている。広げているー、といっても全ワタシ規模の話で、2020年11月の今、世の中は「アメリカ大統領選挙」と「鬼滅の刃」だらけですがー。

映画『マクマホン・ファイル』と原作の同名小説

映画『マクマホン・ファイル』(Netflix)は、病に倒れた父親の代わりに中米での武器取引に乗り込んでいく女性ジャーナリストの話。主演はアン・ハサウェイ。

政治サスペンスというし、なにより原作がジョーン・ディディオンなのでコレは!と期待して見たのだけれど、正直期待ハズれ。

で、映画レビューをどう書くか悩みながら人様の評価を見ていたら、まぁこれが見事な酷評揃い。「主人公が結局何をしたいのかわからん!」と。

私もそう思った。そう思ったのだけれど、原作者ジョーン・ディディオンはその前に見たドキュメンタリー『ザ・センター・ウィル・ノット・ホールド』も良かったし、著書『悲しみにある者』も良かった。こんな酷評されるような映画ではないはず。

これは映画の作り方が悪いんじゃ。原作を読まねば!ということで読んだものの......。

もしかして、私は「原作厨」!?

小説で読んだ作品が映画化されるとなると期待が膨らむ一方、キャストや宣伝の印象で「なんか違うくないか?」と思ってしまうことも多い。

で、「どれどれ、ちゃんとあの世界観を映像化デキとるのか?」と何様目線で映画を見て、「なるほどね」とか「そうきたか」と思ったり(これは結構オモシロかったときの感想)、「やっぱり原作のほうがいいね」と思ったりする。

「原作ではこう描かれている」とか、「あのシーンは原作にはない」とか、誰に頼まれてもいないのにいちいちこんなことを言う人をアニメ界隈では「原作厨」と呼ぶらしい。

思う、にとどまっている(たぶん)私はそこまで迷惑な存在ではないはず(たぶん)だけれど、「ナンダカンダ言っても原作のほうがいい、深い」と思っている原作信奉者には違いなかった。

まさか!? 原作を読んでもちっともわからない

そんな原作信奉者の私が救いを求めるように読んだ原作(同名小説)『マクマホン・ファイル』

私の予想では「そうか、そういう背景があったのね」とか「なるほど、映画はここを端折ったのか」と、映画の落ち度が明らかになるはずだった。酷評の原因は主演のアン・ハサウェイとベン・アフレックの大味演技原因説まで準備していた。がー。

小説は主人公の友人アルマを語り部に「事件」を振り返る構成。が、話の時期が前後しまくるし、主人公以外の話も超長いし、いかにも「翻訳」の文章もくどくて読みにくい。

で、肝心の「主人公はいったい何をしたかったのか」がホントにわからん。映画以上にわからん。

これはホントにサスペンス小説なんですかね?

もしかすると彼女が彼に自分が何者であるかを打ち明けたのは、彼がアーリー・タイムズを注文したからかもしれない。もしかすると彼女は彼の方を見て、ファラロン島から流れてくる霧のことを思い出したのかもしれない。もしかすると彼は彼女のほうを見ていて、暑い砂漠の夜明けを思い出したのかもしれない。もしかすると二人はお互いを見つめ合って、自分たちにできるどんなことも、地球のごくかすかな微動ほどの意味も持たず、太平洋の窪みの無目的な振動ほどの意味も持たず、山の峠を閉ざす豪雪ほどの意味も持たず、乾いた叢のなかのガラガラヘビほどの意味も、冷たい深海の水に潜ってゴールデン・ゲートを通りぬけるサメほどの意味も持たないのに気づいたのかもしれない。”楽園をめざすアザラシの水しぶきでかすんだまなざし”そうなのだ。けっきょくこれはロマンスなのだ。もうひとつのロマンス。

小説『マクマホン・ファイル』より

長々と引用してしまいましたが、これが映画で唐突とも思えるあのベッドでのシーンなんでしょう。どこにもそう書いてはいないけれど、これをそう読むしかない。終始こんな感じで書かれているのですからー。

映画的演出を楽しめ!

映画『マクマホン・ファイル』は、原作の世界観を踏襲しつつも中途半端にサスペンス仕立てにしたことが失敗の原因なんでしょう。それでも映画的演出によって多少わかりやすくなっているし、それなりに見どころもある作品になっていたと思う。ラストもあれでいい。いいんです!

改めて思うのは、映画と原作(小説)は別もの、別の表現媒体、別の楽しみ方があるもの。

原作に忠実なほうがいいわけでもないし、忠実である必要もない。
むしろ、自分の想像を超えた解釈や表現があるから映画は面白いのかもしれない。


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