男「人生やり直しセンター?」


 形式だけはありふれた広告だった。

 日常生活に潜むちょっとしたコンプレックスを取り立てて、アカウントに紐づけられた住所の情報から、近くにある店舗へ誘導する、いつものタイプだ。

『この広告は1度しか表示されません!』

 むしろ好都合だ、と心で毒づく。いち早くスキップボタンを押下したい気持ちでやまやまだったが、あいにくこの15秒間はスポンサーの手の内だ。

『今の人生を、もっと充実した人生に変えてみませんか?』
「ランダム表示の広告に人生語られたくねぇよ」

 気づけば声に出ていた。長く一人でいると独り言が多くなるというが、どうやら本当らしい。将来の会話相手はテレビだろうか。

『やりなおしたいこと、思い残したことを、もう一度』

 しかし、この広告は妙だった。

『人生のやりなおし、してみませんか?』

『大人気コース、20年分の余命で10年巻き戻し!』

 言葉は理解できるのに、意味が理解できないところは、夢で聞く戯言に近い。

『申し込みはこちらから! 人生やり直しセンター!』

 ただひとつ、夢と違うのは、内容を忘れることができなかった、という点だった。

 例の妙な広告を見てから、1週間。

 この日までは、いたって平凡な日常を過ごしていた。

 だが。なんだこれは。

 ばかげている。

 信じられない。

『〇〇社CEO、公然わいせつ』
『「白黒つけよう」"卑猥なフェンシング"開幕ならず』
『××社社長「かなり恐怖を感じた」』

 まさか、あの株が、全財産の9割をつぎ込んでいたあの株が、一晩であれほど暴落するなんて。

 寝るのがあと1時間遅ければ、気付けていた。にしたって損はするが、これほどじゃない。
 いったいなんだってんだ。CEOがいきなり競合他社に殴り込んで、そこの社長と、とても口には出せないようなやり方でフェンシングを始めようとするだなんて。くそ、考えるだけで視界が赤くなるほど腹が立つ。人の上に立つ人間のすることとは思えない。人の上に立っていなくたって、しちゃいけないことだ。

「いったい、どうしたら……」

 どうしようもないことは、分かっていた。

『やりなおしたいこと、思い残したことを、もう一度』

 例の広告を思い出す。あのおぞましいほど棒読みなナレーションを。

 やり直せるならやり直したい。1年や10年でなくていい。1日、たった1日でも巻き戻せるなら、それでいい。

 カタン。

 嫌な静寂を切り裂く無配慮な音。どうやら郵便受けに何かが投函されたらしい。こんな状況だというのに、郵便物は届くのだ。現実逃避もかねて、ふらふらとした足取りで確認しに行く。

 そこにあったのは、1枚のチラシだった。あしらわれてあるのは、見覚えのあるフォント、見覚えのある文言。自分がいま何よりも欲している、「やり直し」の文字。

『人生やり直しセンター 特別キャンペーンの対象者に選ばれました!』

 あのふざけた広告で見た、胡散臭い業者の名前が、そこに記されていた。

『今だけ! あなただけ! 余命10年で、20年巻き戻し!』
『申し込み・相談はこちらの番号から!』

 ばかげている。信じられない。だが、この状況、絶体絶命の窮地に立たされれば、誰だって藁を掴む。それが目に見えて穴の開いた泥船であっても、それに縋らざるを得ないのだ。

 どうせ失うものはもうない。こうなりゃ自棄だ。詐欺業者だったとしても、この八つ当たりに付き合ってもらえるならお互い様ってもんだろう。

 電話番号を入力する。そこで初めて、自分の手が震えているのを知った。
 ゆっくり入力し直し、発信ボタンを押す。


 1コール。


 2コール。


 3コール。


 電話受付にしては遅すぎる。4コール。


 5コール。


 6コール。


 やっぱり嘘っぱちだったのか。7コール。


 8コール。


 9、

『はい、こちら「人生やり直しセンター」です』

 繋がった。

『……もしもし?』
「あ、ああ、もしもし」

 まさか本当に繋がるとは思っていなかったから、返事が遅れてしまった。

「人生、を、やり直せる、と伺ったのです、が……」
『はい、承っておりますよ。人生やり直しセンターですから』

 嘘だろ。

 「人生やり直しセンター」だと。名前、もう少しどうにかならなかったのだろうか。

『こちらのお電話、ということはー、あキャンペーン対象者様ですね』
「キャンペーン……」
『今だけ特別に、必要な余命を大幅にディスカウントしているんですよ!』
「余命……」

 あの広告と全く同じテンションで、全く同じくらい意味の分からない言葉が返ってくる。
 詐欺まがいの話を始めたら、ストレス解消のために喚き散らしてやろうと思っていたのに、あまりにも分からないもんだから、その気が削がれてしまった。

『通常ですと遡行期間より消費する余命の方が長くなるんですが、こちらの特別キャンペーンでは僅か余命10年で20年遡ることが可能になっております! つまり実質的に寿命が10年延びるという――』
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」
『はい』

 なんだ、なんなんだ。なんでこんな訳の分からないことを、その辺のセールストークと同じ温度で矢継ぎ早に喋れるんだ。

「つまり、これからの寿命を消費して、過去にタイムスリップできる、ってことですか」
『えー、と、そうですね。広義での、タイムスリップになりますね』

 いったい正気なのか。電話の先の相手も、そいつの言葉を真に受けている自分も。

「すこし、いやかなり、あの、にわかには信じられないんですけど」
『皆さんそうおっしゃいます。私もそうでした』

 ほんとかよ。

『たしかに、こんなこと急に言われても信じがたいですよね。そこでなんですが、もしそちらさえよければ、特別に「1dayパック」を先行体験されませんか?』
「1dayパック?」
『はいー、弊社が扱っているサービスは数年から数十年の長期が中心だったんですが、単位の小さな需要もカバーすると方針転換いたしまして、先月から始めた新プランです』

 キャンペーンだの新プランだの、いろいろと危険な匂いのする単語がポンポンと出てくる。だがタイムスリップを売りにしている時点で、それらの単語の怪しさは誤差のようなものだった。


『こちらはですね、なんと1日遡行するのに「余命1ヵ月」しか消費しないという、かなりの割安コースとなっております』
「割安……」

 相場が分からない。

『他社さんでも1年、安くて半年とかのところを「1ヵ月」というのはこちらとしてもかなり苦しいんですけれども、独自の細分化技術を開発いたしまして、採算ぎりぎりでやらせていただいてます。特許も出願しておりますー』

 他社、あるのか。
 特許、取れるんだ。

『ちなみに、ここでいう「余命」というのは、理論的に最大限生きられる期間になっておりまして、お客様の中には消費した余命に辿り着く前に事故などで亡くなられる方もいらっしゃいますねー』
「はぁ……」

 要は、生きられるか不確定な未来を、生きられる確定な過去に変換する、ってことか。

『さようでございますー』
「あの、具体的に何をするんですか?」
『業務の内情については企業秘密になっておりましてー』
「いえ、あの、私は何をすればいいんでしょうか」
『あ、手続きの方はですね、本来であれば最寄りの事業所の方にお越しいただいて、そちらで署名と押印をいただくかたちになっているんですけどもー、1dayパックの方ですと長期間遡行という扱いにならないので、口頭での同意をいただければ即時に可能ですよ』

 ん、ん、つまり、いま電話で「はい」と言えば、1日をやり直せるってことでいいのか?

『さようでございますねー。厳密には23時間58分前に戻ります』

 そしてさっきから頭の中で考えたことに返事が返ってきてないか。

「あの、あと、さっきから声に出してないのに返事してませんか?」
『これは大変失礼いたしましたー』
「いや失礼とかの問題じゃな」
『で、如何されますか?』

 ずい、と距離を詰められた圧を錯覚した。詮索はするなということらしい。

 どうしようか。

 恐ろしいことに、いまの心中は、「する」にかなり傾いている。最初はあれだけ舐めてかかっていた、現実を舐め腐ったようなふざけた企業の広告を、受け入れようとしている。

 だってそうじゃないか。金銭面はもうこれ以上失いようがない。個人情報も口座番号も、聞いてくる様子はない。ここで己がし得ることといえば、ただ「はい」と口に出すだけだ。

 それで何が起きるかといえば、大方『こんなのに騙される人っているんですねー!』という嘲笑が飛んできて、録音されていた会話がどこかのテレビか動画投稿サイトに上げられ笑いものにされるか、あるいは、非常にありえない話だが、本当に1日前に戻るか。この、どちらかしかないわけだ。

 なら、もう、いいじゃないか。この夢うつつに、身を任せても。

「……はい」
『それは同意、ということでよろしいでしょうか?』
「はい。同意します」
『では、少々お待ちください……。はい、結構です、では10秒ほど目を瞑っていただけますか?』
「はい」
『決して開けないでくださいねー』

 突然、浮遊感。

『皮膚の感覚に意識を向けないようお願いいたします』

 なにか、ねばつくような、それでいて硬質な何かが、身を取り囲む感覚。

『それでは、良い過去を……』

 意識が遠のく。

 何も見えないはずの暗闇に、白い陽炎が揺れていた。

 目を、開いた。

 目を開いて、いいんだっけ。

 開くのは、まぶたか。いやそんなことはどうでもいい。

 急速に回りだす思考。二日酔いのようにガンガンと鳴る頭だが、遅刻が確定した朝と同程度に回転している。

 今日は、何日だ。手元で確認する。

 ……。

 昨日だ。

 昨日だ!

 手の中の日付は、間違いなく、1日巻き戻っていた。急いで株価と残高を確認する。

 下がって、ない。ネットニュースも、騒いでない!

 人間という生物は、真の安心を享受すると、脳みその中心から、白い温みが下りてくるのだ。

 ああ。

 よかった。

 株で有り金ほとんど溶かした自分は、存在しなかったんだ。

 まるで夢のよう。

 夢。

 夢?

 これは、夢か?
 夢だとして、辻褄の合わない点が存在しない。

 頬をつねる。痛い。だがまだだ。夢でないと証明するにはまだ足りない。叫んでみる。地団太を踏む。目を見開いてみる。それらすべてを組み合わせる。しばらくそうやっていると、隣人に壁を叩かれた。すぐに止めた。

 ここまでして目が覚めない。ということは。

 ここまでして、やっと認められる。これは現実だ。紛れもない、現実だ。

 急いで株を売却する。税金だの手数料だの、いまはどうでもいい。一刻も早く。

 これで、最悪の事態は免れた、はずだ。未だに現実とは思えないが、救われた、ということになる。

 あんな広告に。

 動画広告も、捨てたもんじゃないのかもしれない。

 いや、やっぱりそれだけはありえない。

 非常に体調の悪い己を装いながら職場に電話を入れたのち、再度あの番号に電話を掛ける。

 これが夢や物語であれば、電話は繋がらず、どれだけ調べたところで何の痕跡も残っていない。しかしこれはあくまでも体験、お試しパックなのだ。その先に本契約があるのが、商売というものだろう。

 予想通り電話は繋がった。初回とは違い1コールで出た相手は、前回とは別人だった。

「あの!」
『はい、木田から話は伺っております。1dayパックの体験者様ですね』

 木田、って名前だったのか、あの人は。

「あー、そうです! まさか本当に、本当だったとは!」
『当サービスはお役に立ちましたか?』
「いやほんっとに、ほんっとうに助かりました!」
『そう言っていただけると冥利に尽きます』

 自分の熱量とは裏腹に、かなり事務的な反応だな、と頭の冷静な部分で思ったが、仕方のないことだろう。初めて話す人間からいきなり強い感謝を伝えられても、対応に困る。

「それでなんですが、長期間の……」
『はい、長遡の申し込みですね』
「ちょうそ……」

 チョウソ? ソって……ああ遡行の遡か。

「あ、それです」
『でしたら最寄りの事業所を検索いたしますので、お近くの駅などがあれば教えていただきたいのですが』
「はい、最寄り駅は…………」

 そのまま、特に躓くこと(互いの知っている地名がまったく一致しないなど)もなく、最寄りの駅に事業所のテナントが入っているらしいことが判明した。電話口に行き先を告げられる。

 そうして教えられたのは、駅構内の地下1階。人通りは少なく、少しさびれた雰囲気だった。そんな中、正面の「人生やり直しセンター」の看板だけが真新しい。「押」の印字が消えかかった、自動ではないタイプのガラス戸を押し、室内へ入る。

「ようこそお越しくださいました」

 電話口と同じ声。胸には「咲橋」と書かれた名札が付けられていた。

「どうぞこちらへ」

 室内は長細く、2人用の席が4つほど用意されていた。それぞれ肩くらいの高さがあるパーテーションで区切られ、視線は切られるが声は丸聞こえだろう。

「コーヒーとオレンジジュース、どちらがよろしいですか?」
「すいません、コーヒーで……」
「かしこまりました」

 しかし幸いにも来客は自分のみ。貸し切りであった。

「お待たせしました、コーヒーです」
「ありがとうございます」

 咲橋のカップにはオレンジジュースが注がれていた。

「すみません、お電話でも伺ったのですが、1dayパック、いかがでしたか?」
「いや、本当にタイムスリップできるとは、思ってなかったので。本当にすごいですね」
「ありがとうございます。それで、よかったらなんですけど、こちらのアンケート用紙に感想をご記入いただくことって……」
「あ、体験ですもんね。必要ですよねフィードバック。もう全然書きますよ。むしろ書かせてください」
「恐縮です」

 手渡されたクリップボードには、日付、名前の記入欄と、いくつかの質問が印刷されたA4の紙とボールペンが挟んである。ボールペンには「人生やり直しセンター」とゴシック体でプリントされていたが、形状はどこかで見たことがあるものだった。

「書きながら聞いていただいて構わないんですけど」
「はい」
「……志藤さんが今月で初めてのご利用者様なんですよ」
「え、そうなんですか」
「はい。もともとうちのサービスって、あんまり受け入れてもらえなくて……」
「それは、まあ、たしかにそうでしょうね」

 なにがなんでも怪しすぎる。

「はい……。1dayパックも、そういった新規参加者を増やすためだったんですけど、はっきり言ってあまり効果がなくて」
「へぇ」
「ですので、こちらとしても、志藤さんに来ていただけてかなり助かっているんですよね」
「どこも大変ですね」
「本当に」

 アンケートの内容は、説明が分かりやすかったか、遡行時の体調不良はなかったか、思った通りのものだったか、といった、至極ありふれた質問だった。

「これ、でいいですかね」
「はい大丈夫です、ご協力ありがとうございます
「いえいえ」

 どうぞ、アンケートのお礼です、といって差し出されたお守りを受け取る。「健康長寿」と刺繡されていた。これは、笑っておくべきところなのだろうか。分からない。放っておこう。

「それで、本日はどういったプランをお考えでしょう」
「プラン、といっても、あんまりわからないんですけど」
「現在取り扱っているものだと、こういったものになりますね」

 咲橋が取り出したフリップに、大きく3つのコースが描かれていた。

「私たちがおすすめさせていただいているのが、この20年10年プランですね。一番人気のプランになっておりまして、余命20年で10年遡行ができます」
「はぁ」
「ほかにも、小回りの利く5年1年プラン、そして一番還元率が高い50年40年プランというのもございます。ただ5040の方は記憶保証が最大90%となっておりまして、それで敬遠される方もおられますね」
「記憶?」

 記憶保証。聞きなれない言葉だ。いや、聞きなれない言葉はぎょうさん聞いてきたが、これだけは切実度合が違うぞ。

「あれ、木田から説明ありませんでした?」
「初耳です」

 そういうと、咲橋の表情が焦燥一色になる。

「大変申し訳ございません! 弊社の遡行システムですと、遡行時に記憶の一部が欠けるリスクがございまして! 1dayの遡行でしたら無視できる程度で公表義務もないのですが、長期遡行だと決して無視できないレベルの記憶欠落がございます」
「え、まずくないですかそれ」

 遡ったら右も左も分からなくなってる可能性があるってことか。

「一応スクリーニングで重要な記憶は保護させていただいてるんですが、それほど重要でないと思われる記憶……たとえば一昨日の夕食ですとか、そういった記憶が自然忘却でない形でロストしてしまうケースが多いですね」
「あー、いやでも、そのくらいなら……」
「日常生活に支障は出ませんので」
「なら、まぁ……大丈夫ですかね」
「申し訳ありませんでした。木田には言っておきますので」
「いえ……」

 予想外のデメリットに少しうろたえてしまったが、冷静に考えれば数十年前のことなんて既に覚えていることの方が少ない。重要な記憶が保たれるという言葉を信じるなら、気にすることではないだろう。

「それでですね、志藤さんが選べる特別キャンペーンのお話なんですが……」
「はい」

 咲橋が別のフリップを取り出した。

「こちらですね。スペシャル10年20年プラン。こちら業界初の試みとなっておりまして、遡行比……消費寿命と遡行期間の割合が一対二となっております」
「ふつうは消費の方が多いんですね?」
「そうですね、遡行比は基本的に消費寿命の方が多いので、1を切る数値……よくて0.8といったところで、この遡行比2という数字は前代未聞です」

 それで商売になるのだろうか。

「正直利益はマイナスなんですが、新規参入者さんを増やせるならと、断腸の思いでやらせてもらっています」

 もっとも、寿命をやり取りするビジネスモデル自体、相変わらずわけがわからないが。

 ただ、そこを深く掘り下げても、おそらく自分には理解できない。既に常識は超えている。だが常識を超えた体験は、それでも現実だった。なら鵜呑みにするほか、選択肢はない。

「こちらのプランですと、記憶保証は95%と低めではあるのですが、なんといってもお得に遡行ができます。寿命が延びるようなものですからね」
「あ、記憶保証の95%ってどのくらいですか?」
「今朝の献立を忘れるくらいです」

 微妙。まぁ実害はないだろう。

「それで、どうなさいますか? 他のプラン、というかオーダーメイドも可能なのですが、どれも割高になります」
「んー……」

 この話を聞いてから、ずっと疑問だったことがあった。

「なにかご要望があれば遠慮なくお申し付けください」
「私、って、26歳なんですけど」
「はい」
「これで例えば、5040プランを選ぶとするじゃないですか。でももともと30歳で死ぬ運命だった、って場合だったらどうなるんですか」

 つまり返す当てがないのに借りたらどうなるのか、ということだ。

「あぁー、余命超過のケースですね。そういった場合は、消費できる最大の余命を消費して、それに対応した遡行が可能になります。遡行比は選択いただいたプランのままです」
「なるほど……余命の見積もりとかって」
「そういったことはできかねます。申し訳ございません」
「なるほど…………」

 余命に自信があれば1年とかで、死にそうなのが分かってたら長期間一択って感じだろうか。いや、そもそもやり直そうなんて思わない人生が一番いいに決まってるんだが。

「……少し考えてもいいでしょうか」
「構いませんよ」
「すみません」
「いえ、人生がかかっている判断ですからね」

 文字通りに。

「平日の10時から19時、土曜は10時から16時まで営業しておりますので、お気軽にお越しください」
「わかりました。いろいろありがとうございます」
「こちらこそありがとうございました」

 咲橋に見送られながら帰路につく。帰ってからやることは、既に決めていた。

「……よし、こんなもんか」

 過去20年。その間に急成長した企業と、仮想通貨と、起こった大きな事件、災害。それらを大方頭に入れ、再びやり直しセンターに向かう。

 過去へタイムトラベルをする際、最も役に立つものは、百円玉でもハカセのトンデモアイテムでもない。現代の知識だ。

 いつ、どこで、何が起こるのか。どの企業が発展するかを知ったうえでやる投資ほど安定した投資はないし、それに限らずとも、震災に巻き込まれての事故死を防ぐ、なんならそれを予言して占い師として小銭を稼ぐとか、何でもやりたい放題だ。

 20年巻き戻るということは、6歳、つまり小学一年生。成人済みの知識があれば、向こう9年の授業はほぼ寝たきりでもなんとかなるだろう。まっとうに生きるならば、6歳時点から受験勉強を開始し、神童として名を馳せることだって可能だ。そんな面倒くさいこと、やる気ないけど。

 とにかく、今の自分に敵はない。どうせ友達も少ない、積み上げてきたものもろくにない人生だった。ここで一発、逆転と行こうじゃないか。

「ようこそお越し……志藤さん、またお越しいただけたようでなによりです」
「今日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
「ということは」
「遡行しますよ、20年」

 咲橋の顔がぱあと明るくなる。素晴らしい営業スマイル。

「ではこちらへ。事前の説明と同意書のご用意がありますので」
「わかりました」

 昨日の応接間ではない、もっと奥の部屋へと通される。通路が薄暗いのは節電だろうか。

「いま資料をお持ちしますので、こちらにおかけになってお待ちください」
「はい」

 通された部屋は、窓のない……地下だからそれは当たり前なのだが、不思議と圧迫感のある個室だった。中央に一人用の机と、ヘッドレスト・アームレスト等が完備されたチェア。机の上にはアイマスクと防音用のイヤーマフが置かれていた。

 昨日の(元の時間軸で言えば今日の)タイムスリップ時の不快感を思い出す。あの時は1日だけの遡行ということもあり、目を閉じる程度でなんとかなったが、年単位だとそうはいかないということだろう。どれだけの気持ち悪さが伴うか想像すると、少し嫌になった。

「お待たせしました」

 こちらが事前の注意事項と同意書になります、と咲橋が書類を渡してくる。

「まずプランの確認と、遡行時の体調不良、記憶保証と余命アラームのご説明をしますね」
「余命アラーム」

 また初出のワードが出てきた。

「プランは特別キャンペーンの10年余命を消費して、20年遡る、でよろしいですね」
「はい」

 問題ない。

「時間遡行時に車酔いのような症状……頭痛や吐き気などが出る場合がございますが、一時的なものですのでご了承ください」
「はい」

 返事をするたびに咲橋がチェックシートにチェックを書き込んでいく。

「本プランは記憶保証95%となっております。最大の損失が5%という意味で、欠落がない方もいらっしゃいます。そして、この取引に関する記憶は優先度を最高に設定しております。この点大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」

 問題は次だ。

「余命アラームはどのようにしますか?」
「なんですかそれ」
「あ、それも説明されてない」
「はい」

 最初の電話担当者はかなり説明を端折っていたらしい。名前は確か、木谷、だったか。

「余命アラームというのは、えー、例えば」

 口頭の説明だとすぐには伝えられないと考えたのか、咲橋がチェックシートの裏に図を書き始める。

「60歳で亡くなる方が、30歳の時に余命を20年使って10年遡行したとします」
「20歳に戻るわけですね」
「はい。するとこの方の寿命は40歳になるので、あと20年生きられます」

 改めて聞くと、恐ろしい話だ。余命20年は長い。

「ですがこの方がもともと平均年齢、90歳まで生きる気満々だったとします」
「その半分の歳にもなれないってことですね」
「そうです。もともと余命は分からないとはいえ、余命の20/30と20/60を同じ扱いにするのはどうか、という声があがりまして」

 フェアじゃない、という話だろうか。

「そこで、遡行時に余命をお伝えすることはできないので、遡行後に『消費した余命の分を遡って通知する』というサービスが生まれました」
「ん?」

 急に分かりにくくなったぞ。

「消費した余命20年分を遡った20歳時点で、『残りの人生は20年ですよ』ということをお伝えするということです」
「えーと、つまり10年使って10年遡ったとしたら、30歳時点で通知が来る?」
「そうです」

 まだ完全にはのみ込めていないが、1年使えば死ぬ1年前に、50年使えば死ぬ50年前に通知が来るということでいいだろう。

「このシステムだと、長期遡行者ほど死のタイミングが分かるのも早くなるので、より計画的に人生を送れるという形になってます。ちなみに、アラームには消費した余命の±10%程度の誤差があります」
「なるほど……まぁ落としどころとしてはいいんですかね」
「今はそのようになってるようですね」

 遡行前の人間に余命を教えることはいけないが、遡行後の人間に余命を教えるのは許されている。なんともちぐはぐな気がするが、おそらくこれは人間の作ったルールだろうから仕方ないか。

「基本設定ですと、アラームありになってます」
「わかりました。そのまま、ありでお願いします」
「遠回しな死刑宣告のようなものですから、なしにする方もおられるんですが」
「いえ、自分の死期を知らない方が怖いと思います。せっかく知れるなら、知っておきたい」
「承知しました。では、こちらの同意書にサインをお願いします」

 文章に目を通してから、同意するにチェックを入れ、すらすらと自分の名前を記入する。もっと緊張するかと思っていたが、不思議と落ち着いていた。手も震えていない。

「はい、書きました」
「……確かに受領いたしました。アイマスクとイヤーマフをつけて、しばらくお待ちください」

 言われた通りにする。

 目の前が暗い。

 音が遠くに聞こえる。

 ドアの閉まる振動を感じた。咲橋が出て行ったか。

 ……。

 これ、本当に大丈夫だろうか。手続きが終わってから、急に不安になってきた。

 詐欺の常套手段として、最初はカモに少しおいしい思いをさせて乗り気にさせてから、もっと大きい話で騙す、というのがある。

 今の状況、これと完全に一致していないだろうか。

 咲橋が出て行ってから、もうどれくらい経っただろう。感覚が二つ潰されているからか、時間感覚が鈍くなっている。

 数分、十数分。あるいはまだ一分と経っていないかもしれない。

 いや、大丈夫だ。時間遡行なんて大それたことができる集団なんだ。自分みたいなちゃちな人間一人カモにしたところで、何も得られないはずだ。

 そう自分に言い聞かせていると、じんわりとあの時と同じ感覚が近づいてきた。

 あの時よりも緩やかだが、しかし強制力は強く感じる。決して逃れえぬ流れに身を囚われた感覚。世界の法則に逆らっているような、自分だけが異物になってしまったかのような違和感。

 おお、これは、でかい。1日とは比べ物にならない期間だから、予想はしていたが、予想以上だ。

 何も見えていないはずの視界がぐるぐると回る。自分が大きいのか、小さいのか、パラメータのスライダーを左右に揺らしているようだ。眼窩がまくれて全身を覆う。そのまま丸く球体になって、それは地球だった。ならそれを見ている自分はなんだ。

 まるで製造途中のキャンディーになった気分。練って練られて、混ぜて混ぜ込まれて。ちょうどよい大きさに切り分けられて、成形されて、冷却されて、

 布団の上だ。

 実家の天井、蝉の声。

 窓から指す日は燦燦と、冴えわたる青に白はない。

 掌を見る。小さい掌。

「は、はは」

 息が漏れ出る。

「なんだよこれ、すげぇ……」

 そう呟いた声は、記憶よりも甲高かった。

 過去にタイムスリップして、思いのほか大変だったことがあった。

 それは「過去を再現すること」だ。

 実は未来の人間だ、なんてことが周囲に知れたら、確実に面倒なことになる。だからできるだけ違和感のないように、年相応のふるまいをしなければならない。それにバタフライエフェクトという言葉もあるし、大それたことをして未来が変わっても困る。

 だが、20年前の記憶なんて、そもそもほとんどが忘れてしまっている。要所要所の印象的な記憶はあるが、それらがいかに幼少期のごく一部に過ぎなかったのかということを痛感させられた。

 それでもなんとか、能ある鷹として爪を隠しつつ、適度に手を抜いて人生を送り、勝ち馬の銘柄に投資し続けた。自分の過去再現が甘かったのか、記憶とは違う未来になっている部分も少なくなかったが、大局的にはそのまま。概ねみなが知っている現代に、戻ってくることができた。

「おお、36歳の誕生日サプライズは札束の風呂か」

 とんでもない富豪として。

「……入ってから考えるのもあれだが、札束の風呂って、衛生的にどうなんだ? 金持ちの代名詞みたいなもんだからやってみたが、やっぱり金持ちの思考は理解できん」

 もしかすると、他の資産家も、こうやって過去にタイムスリップしてきた時間遡行者なのかもしれない。

「さすがに札を燃やして明かりにするのは、法律が怖いしなぁ」

 いや、法律がカバーしてるのは硬貨だけだっけ。……どうでもいいか。どっちにしろやらないし。

「そういえば、あのセンターってもうできてるのかな」

 ふと思い出した。遡行直後は流石にセンター自体が運営していないだろうから、あとで行こう、あとで確かめよう、と思ったきり、行動に移していなかった。

「せっかくだし見に行ってみるか」

 今度のTV収録の後に。


「あれ、無い」

 例の駅まで30分以上かけて移動してきてやったというのに、やり直しセンターは影も形も存在していなかった。

「先に検索すればよかったな」

 どうせある、と思い込んでネット検索すらしていなかったことを後悔する。確かに、前回の世界とは少し違う世界になってしまっているから、ここにテナントが入っていなくても不思議ではない。

「……あれ」

 公式サイト、ヒットせず。

 動画サイトのの広告を検索する。ヒットせず。

「もしかして、過去が変わったせいでなくなっちゃった?」

 まぁ、いいか。会えたらお礼でも、と思っていたが、ないものねだりはできない。

「そういえば、センターがなくなったら、あのアラームはどうなるんだ」
『ピッ』
「!?」

 突然脳内に電子音が鳴った。

『残り、約十年です』
「噂をすれば、とは言うけどさ」

 別に聞きたかったわけじゃないんだけど。

「マジか」

 確かに、死を告げられるのは気分のいいものではない。

「でも……」

 今10年分のアラームが鳴ったってことは、だいたい46歳で死ぬという事か。そしてもともとの寿命が56歳だったと。

「じゃあ、得かもな」

 遡行したことで、結局66年間生きられているわけだ。しかも前の人生より満たされた、明らかな成功者として。

「どうせ老いてからの人生が長くなったところでなぁ。若さに勝るもんなんてないし」

 あの時の判断は間違いではなかったと思える。

「あと10年の人生、しゃぶり尽くそう」

 アラームが鳴ってから、7年が経った。

 あの時から毎年入念な検診を受けるようにしたというのに、今更になって難病が発覚した。現在治療法が確立しておらす、しかもかなり進行しているという。

 医者が言うには、余命は数年だそうだ。

 それを聞いてすぐに、財産のほとんどを自分の病気の治療法を開発している研究室に投資した。

 あのアラームを聞いたときに死ぬ覚悟したつもりでいたが、人間そう簡単に割り切れるものではないらしい。

 死にたくない。

 日に日に身体の自由がなくなっていく。

 もう十分に、前の人生と比べたら、比べものにならないくらい自由な人生を送ってきたはず。そう自分に言い聞かせても、もっと生きたいと願う心を止めることができない。

 怖い。

 発覚から2年。アラームから9年。

 まだ生きている。

 治療薬の開発は難航していた。投資は功を奏したのか、あるいはそうではないのか。通常、研究がどういったペースで進むのかを知らないから分からないが、私にはもう時間がない。だが、他の分野の研究には大きなブレークスルーがあったらしく、研究者が言うには、あともう2年もあれば、この世の難病をあらかた治せる万能薬が開発できるかもしれないと。

 投資先に失敗したか。

 少し研究費をそちらへ回そうかとも思ったが、あいにく資産にそこまでの余裕はない。

 今支援している研究室への出資を絞ろうかとも考えたが、契約書には抜け目がなかった。

 くそ。いくら投資してやったと思ってるんだ。

 だがもはや怒鳴る体力も声帯もない。

 どうやっても運命には逆らえないのか。

 今の自分には、ただ祈ることしかできない。

 アラームから11年。

 まだ生きている。おれはまだ生きている!

 なぜアラームが鳴ってから10年以上生きているのか。そのからくりは、あの時に受けたアラームの説明にあった。

『アラームには消費した余命の±10%程度の誤差があります』

 つまり、10年遡行したなら、誤差は1年程度。それがいま、完全にプラスに働いている。

 46歳の誕生日、まるで葬式のような気持ちで過ごしたあの日のおれの気持ちを返してほしい。

 とにかく、まだおれには希望が残されている、ということだ。

「……本当か」
『はい、目途がつきました!』

 なんと。

 ついに。

 天は、まだおれを見放してはいなかったらしい。

「その薬は本当に効くんだろうな」
『信じられないかもしれませんが、この薬はすごいですよ』
「勿体ぶるんじゃない」
『すみません。まだ私も信じられていなくて。ですがこれは、人類が夢にまで見た、不老不死の万能薬です』

 は、はは。

 おれが出資した研究室の研究員の、知り合いが起したベンチャー企業から、まさか不老不死の薬が生まれるなんて。

 もうこの際、実を結ばなかった研究費などどうでもいい。生きながらえられるのならば。

 本来無機質なはずの合成音声デバイスに、感情が乗る。

「本当か」
『はい、間違いありません。私も実験を見学しましたが、直前まで瀕死だったラットがぴんぴんしてました。あまりにも死なないもんだから、向こうの企業はラットが増えすぎて困ってるらしいですよ』

 ラットは別に不老不死じゃなくても増えまくるだろ。

「それで。もうできてるんだろ? 早く都合してくれ」
『いえ、これから承認が必要なので、あと1年はかかりますね』
「おい、話が違うじゃないか! お前のコネでいち早く処方してくれると!」

 あの時聞いた話では、もう完成していておかしくないはずだ。

『あれはその、いえ、流石に認可なしで投薬するのは……』
「そんなのどうでもいい! 契約書でもなんでも書く、時間がないんだ!」
『そう言われましても……』

 流石にここから1年は待てない。

「わかった、金ならいくらでも出す。私の遺産をお前に相続してやってもいい」
『志藤さんには大変お世話になりましたからね。すぐに手配させていただきます』

 こいつ、態度がコロッと……。まぁ、現金な奴ほど信頼が置ける。金銭が媒介する関係においては。

『ですが、認可云々以前に量産体制が整っていないんです。ヒト一人分の薬を製作するのにあと3か月かかります。どれだけ急いでも2か月。これ以上は早まりません』
「2か月……」

 かなりギリギリのラインだ。だが、これに賭けるしかない。

「わかった。できるだけ急いで」
『ピッ』




『残り、約一か月です』



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「いやぁ、しかしなぁ。いくら元の寿命より長い時間生かしてやった、つってもなぁ」

「おまえ、毎回それ言ってるよな。転職したほうがいいんじゃないか?」

「それも毎回言われてるよ。そんでおれが『良心の呵責さえ目を瞑れば、こんな割良い仕事ないからやめるわけねぇだろ』って返す。このやり取りも飽きたな」

「そうだな……。寿命が実質無限になっても、娯楽や趣味は無限にならなかった」

「おれ達がいつまでも代り映えのしない日々を送るために、本来あの薬が世に出るまで生き延びられた過去の人間の数を減らすんだ。少子化だの高齢化だの、あんなに騒いでたのに」

「おまえその頃生まれてねえだろ。……まぁ減らねえんだから増えるに決まってるよな。死人がゼロになったわけじゃないけど。今年はまだ3人だっけか」

「2人だ。それより聞いたか、今度、枠をまた広げるらしいぜ」

「マジか。前の拡張からまだ3年と経ってないぞ」

「そろそろ世論に押されるかもな」

「それはないだろ。反対してもしなくても、どうせいなかったことになるんだから」

「それもそうだな」

「おれの先祖が、対象枠に入らないことを祈るよ」

「まったくだ。じゃあな」


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「この会話も、800回目か」

『859回目なので、900回目の方が近いかと』

「細かいことはいいんだよ」

『失礼いたしました』

「そんでこのやりとりも、ウン百回目だ。あーあ、小さい頃はなにもかもが楽しかったのになぁ」

『でしたら、こういったキャンペーンがございますが』

「ん? どれどれ……」






男「精神年齢若返りお試しセット?」








※くぅ疲注意※



あとがき

もっとコンパクトにしたかった。



没案「タイムスリップし過ぎ」

 現在の年齢分タイムスリップした主人公。0歳からのリスタートを図るが……。

「……なんだここ、嫌に暗いな」
「おい、何してる! 早く進め!」
「ぼさっとしてんな! 後がつっかえてんだよ!」
「ん、周りにいるのは……? 白い、オタマジャクシみたいな……あ!」

 人生最初のレースに乗り遅れ、生れ落ちること叶わず終了。



没案「ネットでよく見るSS形式」

 はじめは台本形式で書こうと思っていたが、難しかった。しかし憧れを捨てきれず、普通の形式と台本形式の両方を用意しようと画策していたが、間に合わなかった。以下その名残。

男「なんだこの広告」

スマホ「〇☆駅周辺にお住いのあなた!」

男「なんだ、よくある脱毛かなんかの広告か」

スマホ「この広告は1度しか表示されません!」

男「全然惜しくないし、むしろ願ったりだよ」

スマホ「もし今の人生に満足できていなければ、ぜひお試しください!」

男「どうせ不幸な日常、からの脱毛減量で異様に幸福に、って展開だろ? 見え見えだわ。そもそもそのネタはベネッセがこすりきって……ん?」

スマホ「今だけ、特別価格で人生を初めからやり直すことができます!」

男「は? なんだ、これ」



ここはどこだ