芸能人の自殺報道

祖母の死

突然、祖母がいなくなった。図書館に行ってくると言ったきり、夜になっても帰ってこなかったのだ。翌朝、祖父が警察に行き捜索が始まった。母は「きっと大丈夫だから」と言って早朝に実家に帰り、私は学校に行った。どうか祖母が無事でありますように、どうか祖母が見つかりますようにと祈った。心配になって昼休みに学校の公衆電話から電話したら勉強に集中しろと怒られた(笑)。塾から帰ってきてまた電話をしてみたが、事態はあまり進んでいないようだった。加えて私や母たち子どもの物を除き祖母の部屋の物は綺麗に片付けられている様子であることも知った。さらにその次の日の夕方に母が家に帰ってきた。川で祖母の身体が見つかったとのことだった。警察の検死を経てから葬式を行うらしい。母の前で泣いた。何もかもよくわからないが漠然と"もう会えない"という事実に悲しくて泣いた。私が「長生きしてね」とメールを送ったら今が変わっていたかもしれないとも思った。悲しかったし、悔しかった。

お葬式で泣いた記憶はない。祖母の顔を見たが、母と叔母が化粧を施したらしくいつもの祖母の化粧ではないし、そもそもいつもの笑った顔でもないので、それが祖母であることをあまり認識できなかった記憶がある。(今思えばとても綺麗な死に顔だった。しかし検死の後ということで、髪は全て剃られ、頭頂部はホチキスで止められているような状態だったという。叔母と母が事前に祖母の頭にニット帽を被せてくれていた。)
遺体に触ってごらんと言われて祖母の顔に触ったが、氷を覆った皮のような感触だったのも覚えている。今でもリアルにその感触が指に蘇る。でもこの経験があったからこそ、遺体が冷たいこと、遺体は遺体でありもう起きないこと、祖母が死んだことを理解できたのだと思う。

亡くなってからしばらくは、親族皆が「なぜ」「どうして」を探し、「こうしてたら」「あの時ああすれば」と皆さまざまに思いを巡らせた(今ではそれぞれが解を持っているように思う)。私も当時は「長生きしてね」と送らなかった自分を呪ったが、あのメールを送ったところで死ぬ時期が少し先延ばしされただけで結果は変わらなかったような気がする。なぜなら、死の選択の主要因(であろうもの)を私は解決できる立場になく、私はそれら問題から目を逸らすもしくはそれに勝っていた存在であり、祖母にとっての目眩しの生きがいだったのだと思うからだ。悲しいけど嬉しいような気もする。
人間は成長するもので、私はいつまでも祖母のそばにはいられない。一つ欲を言うならば当時頑張っていた高校受験の結果を一緒に見てほしかった。でも私を可愛がり丁寧に接してくれたことに変わりはない。祖母にありがとうと言いたい。そして、今まで人生お疲れ様と伝えたい。
例え、祖母の死が現実から逃げるものであったとしても、70年弱の人生を生きて、それを自分の手で終わらせたのだ。死ぬには相当の覚悟がいるものだろう。ましてや自分で自分の命を経つのだから、人生で一番覚悟のいることだろう。そんな覚悟をした祖母だから、私は祖母に人生お疲れ様とも言いたいのだ。

自死ということ

祖母は自分で命を絶った。世間ではあまりよく聞こえないらしいが、私は祖母の死は美しいと思う。人はいずれ死ぬ。どの段階で亡くなっても悲しいものは悲しい。祖母は自分で死ぬ準備をして死に時期を選んだのだ。家に祖母のものはほとんど残っていなかった。ただ、私や他の家族が家に来た時に必要になりそうな祖母の物は分別され、私たちのために残してくれていた。(ここであのジグソーパズルも捨てられていたのは悲しかった。だからこそ自分で同じものを買ってジグソーパズルを始めたのだが。笑)
親族関連や地域関連の仕事の詳細と現状は祖母のノートに記されていた。祖父が頑張れと言うことだな。笑
祖母は死の場所も選んだ。交通事故など人の迷惑になる方法でもなく、自宅など身近な私たちの心を抉るような場所でもなく、家からしばらく歩いたところにある大きな川を選んで、まだ冬の冷たいその川に入っていった(捜索には警察の手を用したが)。
祖母は考えて結論を出して自死を選んだのだ。

私は祖母の死を美化したい。単なる自殺だと言ってほしくない。

昨今の報道について

"自殺"という言葉には「現実逃避」「誤った手段」「精神錯乱」など悪い印象がつきまとう。キリスト教や仏教などの宗教でも良いものとされていない。それはそうだろう。私も一概に自殺を肯定するのではない。
しかし、自殺した人に「お疲れ様」「よく今まで頑張ったね」と声をかけるような人がいて、それを受け流せる社会であってもいいのではないかと思うのだ。

「信じられない」と言うコメント

コンメンテーターとしては 「(もうこの世にいない/会えないのが)信じられない」 という意味だと思われるが、その言葉のみを抜粋しあたかも 「(まさかあの人が自殺するなんて)信じられない」と読み取らせるような文章構成の記事に傷つき、とても腹が立った。
そもそもコメンテーターの「信じられない」と言う言葉も気に食わない。
脳溢血などで突然亡くなりました。→「信じられない」というのは理解できるし、おそらく本人も信じられないだろう。しかし、自殺しました。→「信じられない」というのは無責任な表現ではないか。本人からすれば突然死んだわけではないだろう。何かしら思考の変遷があって自殺という結論に至り実行しただけではないのだろうか。その発言した人が知らなかった/知ろうとしなかっただけではないだろうか。報道は少なからず社会に影響を及ぼす。だからこそ、コメントをする人は自分とその人の関わり方を踏まえて発言をしてほしい。もちろん事実を知った人はショックはショックだろう。けれど、亡くなった人は自殺するほど何かしらにショックを受けていたんだよ!と思うのだ。そして報道する側は、無闇矢鱈に取材して記事にするのではなく、その人の背景を理解しようと努め、亡くなった人もその周りの人も心痛まない表現で報道してほしい、と私は願う。

夕刊の大見出し「○○が自殺!」

コンビニの入り口には大抵新聞が置かれている。その日の夕刊はほとんどの新聞社がこの記事を取り上げ、紙面の1/2を占めるほどの大きな文字で報じた。
他利的自殺や自分の人生に満足した自殺を許容すると自殺を誘発すると言う考えもあるし、それらの自殺といじめによる若者の本当に悔やむべき反省すべき自殺との境が曖昧で言葉に表しにくい。一部の自殺≠悪いこと、と法で定義することが難しいから社会的には「死ぬな!!」というしかないのかもしれない。 だから報道でも死ぬことに対するショックを伝えて背景をおざなりにしがちなのではないかとも考えられる。しかしそれは言語の怠慢だ。報道機関が自殺は悪いと決めて、自殺という最悪な選択をした人、現実から逃げた人、というレッテルを率先して貼らないでほしい。
そして、命の電話の番号を最後に書いたらセーフみたいな、薄っぺらなことをして欲しくない。自殺という言葉は「殺す」という強烈な文字が入っている。見た人が受ける衝撃も考えて言葉を選んでほしい。

祖母の死により、私自身が死の種類について敏感になっているから、報道の小さな表現にもイライラくるのだろう。
というか自殺という言葉が嫌いだわ。自死でいいよね。

自殺:自分で自分を殺すこと。(動作を示す言葉)
自死:自分が死ぬこと。(状態を示す言葉)

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