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【園館等訪問ルポ】或る「仏法僧」伝――「通学帽と地層」の記憶/鳳来寺山自然科学博物館(愛知県新城市)

   里帰りも兼ねて、JR飯田線に乗った。慣れ親しんできた駅名がゆっくり通り過ぎていくのを見ながら、奥三河と呼ばれる地域に入っていった。駅からまた長い道を歩いた。ツクツクボウシが鳴いていた。先に実家に帰って、車を借りればよかったかもな、と少しだけ思った。



    鳳来寺山の参道から少し脇道に逸れて歩いていくと、緑を背にした白い建物が見えてくる。昔の記憶のままだ。鳳来寺山自然科学博物館の外観は幼かった頃訪れた時と変わっていなかったけれど、少し綺麗になった気がする。



    ここ鳳来寺山麓は、日本で初めてコノハズクの鳴き声がラジオ中継され、声の主がフクロウの一種だと判明したきっかけになった場所とされる。コノハズクが愛知県の鳥に指定されているのもその由縁だ。




 

  もう長いこと生きたコノハズクの姿は観察されていないようだが、それでも近縁のフクロウの仲間をはじめとした鳥類の展示には大きなボリュームが割かれ、この自然科学博物館を特徴付けている。



  


     コノハズクは居なかったが、傷病鳥獣としてオオコノハズクが2羽保護されていた。いずれも小柄で冠羽も生え揃っていない。若い個体なのかもしれない。薄暗いケージの中で、「声の仏法僧」たる彼らは今を忍んでいた。



  館内では学芸員の方が作成されたワークシートが配布されている。スケッチには生きものや自然の特徴が的確に表現されている。そして難易度が想像以上に高い。丁寧な手仕事の味わいを感じる。






   

    鉱石や地質学に関する展示が非常に多く本格的なことも大きな特徴だ。 中には学芸員の方が「毎週更新」されている鉱石コレクションのコーナーもある。熱の入りようが伝わってくる。




    海外産の巨大な標本を数多く所蔵している豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)内の豊橋市自然史博物館とは展示の傾向も規模も大きく異なるが、中には地元で出土した貴重な哺乳類化石も展示されている。


    私はふと思い出した。そうだ、最後にこの博物館を訪問した小学校の校外学習で、私は当時館長だった横山良哲先生に連れられて、地層のある崖に行って、小さな二枚貝の生痕化石を掘ったんだ。





  


    横山先生は県立高校教諭・博物館館長であると同時に、武田勝頼ゆかりの寺である長篠山医王寺の住職も務められていた。鉱物コレクターとしても幅広く活躍し、東三河地方の地質学について知悉されていた。


    2011年に惜しまれながら亡くなられたが、鉱石に力を入れる鳳来寺山自然科学博物館の展示は、紛れもなく先生の遺産のひとつだ。



 私はまた思い出した。小学校の学級文庫にも、横山先生の本があった。『奥三河自然賛歌』というフィールドノートをまとめたこの本は、何度も何度も読み返した。戦後の食糧難の時代に虫こぶをかじる話が妙に心に残って、通学路のツツジの葉をまさぐったこともあった。保護され自然科学博物館で飼育された幼いムササビの話。びっくりするような見た目のツチアケビの話……。身近な自然に驚嘆することの面白さを教わった。



   地域の万象を愛し、周囲に伝えていくことに労を惜しまなかった横山先生のご活躍を思い返しながら、いま動き始めている新たな取り組みの胎動に私の連想は及んだ。 東三河地域の地質学的な特異性の魅力をいっそう発信しようと試みる「東三河ジオパーク構想」の動きは、横山先生が実践されてきた精力的な活動と共振しあっているように感ぜられる。静かな巨人の足跡を、時代が追いかけている。




 




   帰り際、1枚の看板が目に止まった。色とりどりの帽子を被った保育園児と保育士さんたちが、博物館の全景、そしてコノハズクとともに描かれている。地域の教育の場としてこの博物館があることを象徴するような看板だ。




   再び小学生の頃の記憶が甦った。私も通学帽に体操服という出で立ちで、ハンマーで石を割りながら、偉大な先人に教えられて自然科学の第一歩を踏み出していたのだ。人間社会のうらおもてや都市生活に追いまくられてすっかり忘れてしまっていたけれど、自然体験という種はちゃんと撒かれていたのだ。




    奥三河地域もいま、人口減少の課題に直面している。山麓の静かな博物館は、都市の大規模な博物館とは、利用形態も展示の方向性も異なるかも知れない。でも、幼い頃ここで触れてきたことは、確かに私の中に生きている。

 「博物館」の原体験を問われれば、私は迷わずこの場所を答える。確かに堆積してきた先人の教えが、ふたたび新たな輝きを放ち出すことを願ってやまない。