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【書評】雑木林の思想――河合雅雄『学問の冒険』を読んで

独創と逍遥と。霊長類から見えてくる、「われわれとは何か」

    2019年11月。SAGA(アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い)第22回大会観覧のために愛知県犬山市の日本モンキーセンターを訪問した折、センターの飼育スタッフの方から、印象的なお話を伺いました。


  飼育されているサルたちの生き生きとした姿が注目を集める日本モンキーセンターの公式twitterアカウント(@j_monkeycentre)。投稿の多くはセンターで暮らすサルたちを最も近くで見守っている飼育スタッフの方々によるものです。

  その公式アカウントへの投稿にあたって、スタッフ間での細かいルールは「特にない」というのです。


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    「ただ、」その後にはこんなことばが続きました――「定款『動物福祉に配慮した動物園』。それを越えて、スタッフが共有する、なにかモンキーセンターの理念のようなものが、根底にはあるのかも知れない」と。


     60年を超える長い歴史を持つモンキーセンター。そこで共有されている「理念」って、何だろう。想いを巡らせていた時に、ふとしたきっかけで、河合雅雄先生の『学問の冒険』を勧めて頂きました。


    日本における霊長類学を切り拓いたパイオニアのひとりである河合先生。日本モンキーセンターにおいても、元所長として深く関わってきた存在です。

    この著作を読むと、幼い頃から自然に親しんできた河合先生の半生が語られるとともに、戦後日本での霊長類学のあゆみ、綺羅星のごとく現れた若い霊長類学者たちの群像、そして日本モンキーセンターのはじまりが克明に記録されていました。


……その頃私たちは、霊長類研究を何とか伸ばしていくための基盤をつくる道を模索していた。それは具体的には、後継者を育成していく母体となる研究所を設立することにあった。(中略)ともかく当時意気込みだけはすさまじかった。プリマーテス研究会をつくって学会の代行をし、各地の野猿公園を糾合し、野猿愛護連盟を結成して野猿の保護にあたり、季刊誌「野猿」を発行した。そして子供たちの自然教育のためにモンキー友の会をつくって毎月例会を開き、月刊誌「モンキー」を発行した。(中略)ここはまさにサル学の梁山泊の観があり、その名にふさわしい強者どもが育っていった。二十代を戦争と病気で失った私にとって、ようやく青春が開花した思いであった。

    河合先生が語った、「サル学の梁山泊」としての日本モンキーセンター。そこにはサルたちとともに、新しい発見を求めて切磋琢磨する若い研究者たちの姿がありました。
    ニホンザルの研究から始まり、アフリカに飛んで野生のゴリラとチンパンジー、そしてゲラダヒヒ、マントヒヒ、マンドリルの「社会」を追った者。アジアをフィールドに、ハヌマンラングール、オランウータン、さらにヒマラヤの「雪男」を追った者。黎明期の霊長類学は学問であると同時に「冒険」であり、そこには圧倒的な熱が篭っていたことが筆致から読み取れました。
    河合先生はまた、世界各地のサルたちが持つ独特の「文化」から敷衍し、私たちヒトの「文化」についても考察しています。曰く、文化は人類の幸福を約束するとともに、地獄の深淵を覗かせる窓口にもなった、と。
    戦争という救いのない時代を生き抜いてきた河合先生らの想いが、日本モンキーセンターの設立には横たわっていました。

   ヒトの進化には光と影の両面がある、という河合先生の人間観は、現在の日本モンキーセンターHPに掲げられている「ご支援のお願い」の一文にも通ずるものがあります。

     



    日本モンキーセンターは、確かにかつてとは大きく姿を変えているかも知れません。海外調査を援助したロックフェラー財団や、名鉄グループによる全面的な支援がセンターを支えていた過去の時代とは、わたしたちヒトを取り巻く社会経済情勢も激変してしまっています。

    しかし一方で、多様な主体が参与しつつあるいま、私たち自身について考える場としての日本モンキーセンターはいっそうの輝きを放ちつつあるように感ぜられるのです。

    『学問の冒険』において河合先生が述べている、多様性の賛歌としての「雑木林の思想」が、いままさに体現されようとしているからこそ、苦境にあっても日本モンキーセンターは多くの人を惹きつけるのかも知れません。

   日本モンキーセンターの歴史を築いてきた先人は、もちろん河合雅雄その人だけではありません。しかし、『学問の冒険』に記されていた歴史とアイデアは、紛れもなく「日本モンキーセンターの理念」に一大水脈として流れ込んでいることを実感しました。




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