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「場所の場所性」についての原体験(前編)――「三田の家」を回顧し、再考する

    東京都港区。絢爛としたイメージに彩られた街の一角、通る人も少ない路地に、「三田の家」はあった。

 「三田の家」が閉じられた最後の年、社会学を専攻する学生として、この「家」に出入りしていた。三田の家に集う木曜日が、とても楽しみだった。いま思えば地方出身者ゆえの感傷だったかも知れないが、ほっとする時間だった。

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  「三田の家」での講義は、講義であって、講義でなかった。
   何度も何度も足を運ぶ。講義の時間外にも、足を運ぶ。時にキッチンで食事を作り、テーブルを囲み、ビールを飲み、ことばを交わす。自分の家のようにくつろぐ。教室ではなく「家」で起きたことすべてが、講義の方向性を決定付ける。

     地域の人たち、学部も学年も専攻も異なる受講者たち、或いは運営に携わるスタッフの方々――重層的な人と人とのつながり。

   田町駅を降りて東京タワーを見上げながら通り過ぎてきた細い路地に、カラフルな糸細工のように織り成された人間関係が広がっていることを目の当たりにし、魅了された。

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  「三田の家」は、「家」でありながら多様な活動を包摂し、その意味解釈は訪れる人それぞれに委ねられていた。


     ある時は学生も勤め人もフリーランサーも共に居ることを許容する「コワーキングスペース」の顔を持っていたかも知れない。

    あるいは、産学連携によって地域コミュニティを活性化するための「小さな拠点」と見なしていた人もいるかも知れない。

    またある人にとっては、インディペンデントかつアド・ホックな企画が生み出される「オルタナティブな試行の場」だったかも知れない。


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    私にとっての「三田の家」は、大学生活とは違う仕方で「人とつながっていく」ことを教えてくれる「生きた学び舎」だった。

    その頃の私には体験した出来事を体系化し書き留めるだけの技量がなかったけれど、いまに続く「場所」と「記憶」と「つながり」への関心は、間違いなくここで培われたと言い切れる。

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   「三田の家」で繰り広げられた実践を記録した、『黒板とワイン』という書籍がある。

    そこには、ある種の矛盾と空白をはらんでいるからこそ人々の創発性に働きかける、この場所の設計思想が記されている。

"物理的に民家ではあるが、しかし三田の「家」は、その実、誰も住まない「家」である。つまり、名前の意味としては矛盾している。名前と機能が合致していないことで、訪れる人の解釈は自由になり、それぞれの意志や欲望を滑り込ませることができる。(中略)空間的には家であり、名前も家なのだが、しかし行われることは家ではない。"(坂倉杏介「創造的な欠如をめぐって――『場』づくりの現場ノート」(『黒板とワイン もうひとつの学び場「三田の家」』(慶應義塾大学出版会,2010)92頁より))


     三田の家は閉じられる最後の時まで、「家」であり、同時に「家」でない場所だった。この「家」での縁がきっかけで親しくなった方もいる。大学やバイト先と住まいとの往復では、見出し得なかったつながりだった。

    そして、この場所が閉じられたあとも、「クロージング」企画としてこの場所に関わりがあった人たちの「振り返りの会」が開かれている。きわめて異色の「集まり」と言えるだろう。

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   「三田の家」が開いてくれた、「自明に存在するように思える場所も、当たり前にあるものではないのだ」という感覚と、だからこそ「当たり前にあるように見なされがちな場所の『場所性』をもっと掘り下げて、意味と価値をつないでいきたい」という想いは、形を変えて今も私の中に残っている。

   ここ数年、私が動物園・水族館という変容しつつある場に対して向けてきたまなざしにも、「三田の家」で過ごした時間の記憶と作法は地下水脈のように流れているはずだ。

   「三田の家」の理念の多くは、同じ東京都港区にある「芝の家」に受け継がれた。この「芝の家」で過ごした時間については、本稿に続くnoteで振り返りたい。


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(後編)



  

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