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「ぼくは言わない」なんて、言わせてもらえなかったけれど #8月31日の夜に



 いつもと違う8月。ぬるりと炭酸の抜けたソーダのような時間が流れていって、9月を迎えようとしています。

 どこにも行かず、誰にも会わないでいると、こころは過去へ過去へと向かっていくんですね。穴ぼこを掘るように、忘れていた昔のできごとをふっと思い出しては考え込む日もありました。


 自分の中ではもうとっくに整理をつけたはずだった記憶。でも見えない返し針が引っかかっていて、こころに刺さったまま抜けなかった記憶。



 わたしは中学校に入ってすぐ、クラスの誰からも話しかけられなくなって、まるでエイリアンになったような気分で13歳になる直前の夏を過ごしていました。

 もっと言えば、遠巻きにされながら、ひとりの自席で、自分ひとりにしか届かないメッセージで真っ黒になった雑記帳を抱えながら、教室のあちこちにたくさんたくさんふき溜まった心ないことばを漏れ聞いていました。

 

 わたしの父は小学校で教員をしていて、中学校から同級生になった子たちは父の教え子だったんですね。自分ではどうにもできない激変の季節、からだもこころものびちぢみしてぐにゃぐにゃにかたちを変えていく第二次性徴期を迎え、野生動物のようにいきり立っていた彼らから見て、教壇に立つわたしの父は不愉快な存在として映っていたのかも知れません。



 尾ひれのついた悪い噂が広がるのには、そう時間はかかりませんでした。ほら、〇〇センセイのところの子だから――。窓サッシの縁に固まっている黒ずんだ埃みたいなことばの中には、つめたい目配せとともにそんな枕詞もこびりついていることがありました。

 わたし自身にも、ひとたび何かに夢中になると途端に周囲が見えなくなって没頭し、世間一般のものさしや、ひとに合わせるということを生活の中で学んでこなかったという落ち度はありました。

 とっくに大人になった今も、世慣れたひとたちにたぶん何周か遅れて、ひとの世というものを勉強している真っ最中です。きっと一生かけて、ときどきへたりこみながら、勉強していくんだろうなって思います。

 けれど、12歳のわたしにも、悪意を向けられて遠ざけられて、人並みに傷つくだけの情緒は育っていたのでした。



 いま振り返れば、なんで市の教育委員会はもっと配慮してくれなかったんだ、っていう憤りもあります。でも狭い田舎でしたから、こういうことは「よくあること」なのだとも思います。別に「センセイ」に限らず、子どもたちの、そして大人たちの生活にも、いまも、昔も、私の田舎に似た、いたるところで。



 中学校生活最初の夏休みの宿題のなかに、「人権」についての作文がありました。

 「人権」と聞いて、中学生になるまでのわたしは、「アフリカの貧しい子どもたち」とか「イラクの難民キャンプで暮らすひとびと」とか「アウン・サン・スーチーさん」とか、そういうシンボリックな、遠くの世界という印象しか抱けなかったんですね。

 でも、「人権」ということばに対するイメージは中学校生活最初の数ヵ月で変わっていました。もっとありふれた日常のできごとと結びつけて、「人権」について書いてみたいと感じました。

 作文のタイトルは自分で決めました。「ぼくは言わない」。

 誰かのことばを聞くことと自分のことばを発することに対するおそれも、原稿用紙の上なら力強い宣言に変えることができる。

 作文を通じて、新しい表現に出会えた気がしました。

 

 夏休みが明けてすぐ、国語担当の先生が私を呼びました。宿題の作文のことでした。

 「すごくよく書けているね。よく書いてくれたね。市の代表作文として、推薦したいと思うのだけど……」

 わたしは、ちゃんと読んでくれるひとがいた、ということに安心しました。「ここにいてもいいんだ」という気持ちになりました。

 

 心なしか、クラスのあちらこちらから向けられるまなざしもおだやかになってきたように思えました。

 野生動物のように移り気な中学1年生たちは、異邦人が群れの中に居ることに「慣れた」のかも知れません。あるいは、もはや小学生の時代を引きずるような話題を続けることに、「飽きた」のかも知れません。

 まだ心なく中傷を続ける者もいましたが、受け流せる範囲でした。

 「言わない」ことを宣言し実行しているわたしは、「言わずにはいられない」彼らよりも自分の気持ちをコントロールできているんだ、そんなちいさな優越感がこころを守る盾でした。



 しかし数週間後、同じ国語の先生がふたたびわたしを呼びました。今度は、きまりの悪そうな顔をしていました。

「ごめんなさいね。このあいだ話していた作文の推薦のことだけど……」

 人権作文コンクールの学校代表として市の広報誌に掲載されてしまったら、まるでこの中学校で悪口がはびこっているように街じゅうのひとたちに思われてしまうから。濁したことばで先生は謝りながら教えてくれたけれど、言わんとしていることは伝わりました。

 あぁ、わたしの数ヵ月の実感は、「アウン・サン・スーチーさん」に負けたのだな。わたしは少しだけがっかりしたけれど、ひとの世のおきてを学べた気がしました。

 たとえ現実に起っていることでも、言えないとされていることが世のなかにはたくさんあるのだということ。

 市の人権作文コンクールは、まちの名誉に泥を塗ると見なした文章を決して引き上げてくれたりはしないのだということ。

 はるか遠くできらきらしているイコンのような「アウン・サン・スーチーさん」について考えることが、「模範的な」作文なのだということ。



そんなわけ、あるか、バカヤロー。



……とは、言えませんでした。「ぼくは言わない」から。わたしはわたしの作文で、そう宣言したのだから。

 でもせめて、職員室の引き出しに押し込めておくんじゃなくて、「ぼくは言わない」ということを、どこか小さな部屋の中ででもいい、言わせてほしかったな。

 今はちょっとだけ、そう思います。

 

 わたしはそれからどうにかこうにかして、不機嫌な若い動物たちの群れの中で3年間生き延びていくことができたのだけど、ある日突然主がいなくなる席がちらほら生まれていることにも気づいていました。

 「文部科学大臣からのお願い」が朝の全校集会で校長先生から読み上げられた日もありました。

 遠くのエライヒトから送りつけられた原稿じゃなくてさ、もう何日も空いたままになっている私の後ろの席のほんとうのことについてはっきり言ってくれよ、わたしは正直いら立ちを隠し通せませんでした。


 今なら分かります。校長先生もわたしと同じように、「言わせてもらえなかった」、ということを。


 卒業式では、名前だけ読み上げられ姿を見せなかった同級生が、10人以上にのぼりました。

 そのことについて、だれも何も語ろうとしませんでした。

 今なら分かります。口に出した瞬間、いま校歌を聴きながら嗚咽している若いけものたちの涙からもどぶ川のように臭気がたちこめ、紅色のカーペットはまっくらやみに暗転して、すべてが台無しになってしまうのだ、とみんな暗黙のうちに了解していたのだということを。


 「ふつう」が大きくうねりをあげて変わっていくいまの世のなかでも、いや大きく変わっていく中だからこそ、悩み、苦しみ、不安を抱えているひとはたくさんいると思います。

 大人だって不安なのだもの、今まさに激変のただなかにある10代のひとたちには何倍も何十倍も不安なひともいるんだろうな、と想像しています。

 自分がニンゲンの群れの中でうまくやっていけないと思い込んで悩んで、いままさに10代のしんどい夏を過ごしているひとたちへ、訓話めいた話をしてあげることはできないのだけど(悩みというものはいつだって十人十色で、けっして一般化できないものだと思うから)、少なくとも、いま釘付けにされている場所が世界のすべてじゃない、ということはことばにできるかな、と思っています。

 大人になって、言えないことも増えたけれど、言えることも同じくらい増えました。

 現にいま書いている「#8月31日の夜に」がそうであるように、「あの時は言えなかったけど、いまなら言える」ということだって、増えていきます。

 いろんな世界を覗いて、いろんなひとの声に触れて、「言えること」と「言えないこと」、「言ってしまうこと」と「言わないこと」の間にある豊かさを感じ取ってみてください。

 「ことばを丁寧につかうこと」についてのしずかな自信が、どうしようもないがんじがらめの、それでいて渾沌とした世界から、ふわっと自分を楽にしてくれることもあると思うから。