テイカーと肯定感

レジリエンスという、精神的に落ち込んだ時の復元力についての書物を読んだ時、初めてGiverとTakerという言葉を目にした。

相手に対して与える側の人間(性格)と、相手から受け取る側の人間(性格)が世の中には存在するという内容だ。

その本にはギバーで居続けることによって、いつか巡り巡って恩恵を受ける時が来る
というような事が書いてあった。
体感、どうだろうか。
僕自身は正直、ギバーであると思うが恩恵を受けていると感じることは少ない。
足りないからだろうか、打算での行為だからだろうか。
それは特にプライベートで感じる。
やはりビジネスにおいては対等でいる事が重要視される事が多いからか、行為や誠意にはきちんと返してくれる事が多い。

たが、プライベートにおいては、与えてばっかりで受け取る事が少ない気がする。
多くを求めても居ないつもりだ。
この現象について、考える機会を与えてくれた出会いがあった。

年はかなり下だった。
立場も、生まれも、お互いのその時の立場も、家族構成も、趣味や好みも全く違う相手だった。
年齢や立場(自分は社会人、相手は学生)のこともあり、食事やデートでかかるお金はなるべく相手の負担にならないようにした。(見栄もある。)
後日会った時、こんなことを言われた。


「ご飯はお言葉に甘えてご馳走になりますが、お茶するときは私に出させてください」

そして同時に、
「対等でいたいんです。」

衝撃だった。
ただ、その時はその感情の内訳がわからないまま帰路についた。
僕はあまり自己肯定感が高い方ではない。
それが答えだった。
対等なんてものはあり得ないと素直に思っていた。
これは性差の話ではなく、惚れた側と惚れられた側が当たり前に存在して、バイアスのあるものだと疑う事なく思っていたからだ。
僕は彼女に惚れていた。だが、彼女が僕に抱いてくれていた感情には無頓着だった。
というか、怖くて考えなかった。

僕と一緒にいる(いてくれる)だけでもありがたかったが、同時に大切な時間を使わせてしまっている申し訳なさを感じていた。
だからせめて、出ていくものは少なく、と思っていた。そうすることでこんな自分なんかと会う時間を捻出する努力へのハードルを下げようとした。

が、彼女とってそれは不自然で、対等ではなかったのだ。

幼少期から、自分が異常な位恵まれていることを認識していた。それは環境も、金銭面も、人間関係もだ。
だからこそ、一歩、いや、半歩間違えば妬み嫉みの的にされる事をドラえもんを見て学んだ笑。
だから小さい時からずっと周囲に気を遣っていた。
そうして身につけた能力「親切、誠意、愛情を振り撒く」は、ある種の積極的自衛権だ。
「あの人のこと嫌いな人いないよね」のあの人になろうとした。

結果、僕は与えるばかりの人になった。
もちろん、それにより受け取ることもある。感謝もしている。
だが、根本的には「僕はこれだけ与えているんだから、僕のこと好きでいてね」の恐喝をしているに過ぎないと彼女は教えてくれた。

自己肯定感が高い人間は、ギフト(誠意なども)受け取りっぱなしでも気にならないのかもしれない。慣れているから。
ただ、低い人間はそうとは限らない。
そこまで価値のある人間じゃないをと遠慮するし、重く感じる。

このギバーとテイカーの塩梅が拮抗していることが、今人と付き合う価値観なのかもしれない。
ご飯を作った僕は、配膳し、食後に片付け、皿洗いまでするのが当たり前で、彼女は100%もてなされる側と認識して行動した。
それもよくなかったのかもしれない。
手伝ってくれようとする彼女に頼ったり、甘えたり、そこに罪悪感を感じないようになるべきだったのだ。

自己肯定感についての書物は、その方法や手段は違えど、結果的に自己肯定感を上げる本ばかりだ。
正直好きではない。低いまま、生きていくしかないと決め込むことも許してくれないだろうか。



こんな自分には無理かもしれない。
が、越えなくてはいけない壁の高さは変わらない。
やんないとしょうがない。

自分なんかと思うけど、そんな自分に好意を持ってくれた人へ、思い出したときに後悔のない時間を過ごしていて欲しい。その為には、こんな自分でもどうにか自分にとっては少し偉そうに振る舞って、手伝ってもらう。親切を受け取る。



それが相手に対しての誠意だと気付かせてくれたことに対して、この感謝を忘れないようにしたいと思い、綴りました。

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