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「鬼滅の刃」考③ 「ふるさと」としての残酷さ

これまた前回の記事の続きです。「鬼滅の刃」にハマっているのがばれてしまっていますが。とにかく考えるのが面白いので続けて書きます。今回は「エヴァンゲリオン」「進撃の巨人」「ベルセルク」との比較です。

1.「残酷な」鬼のテーゼ

 鬼というのはキリスト教で言えば「悪魔」なのですが、昔話や民話に出てくる鬼というのは正義に対する悪というより理不尽な災害のような存在です。おそらく鬼滅の刃も、鬼を持ってきた理由には、そのような理不尽な不気味さがあったのではないかと思えます。

 たとえば「伊勢物語」には、押し入れにいる恋人を、必死で鬼から守って戦っていた侍が、戦いが終わって夜明けに押し入れに戻ると女がすでに鬼に殺されていた、といったようななんとも言えない理不尽な話があります。これとよく似たのがペローの「赤ずきんちゃん」に出てくるオオカミで、元の話は単に赤ずきんがオオカミに食べられてしまう、というところで突然終わってしまうのです。

 鬼滅の刃の冒頭では、炭治郎は留守の際に何の前触れもなく家族が鬼に襲われます。そして「なんでこんなことになったのか」と自問自答します。このような生きることの「残酷さ」を目の当たりにすると、赤ずきんが食べられてしまうようないきなり突き放されたように裏切られ、ぼーっと立ち尽くすような感じがあります。このような風景は稀ではあるものの、人生で出会う可能性がある不幸です。

 このような突然切断させられたような残酷さは、鬼滅の刃の漫画のひとつの特長でもあり、そして鬼というファンタジーを除いても「リアル」に感じるところです。このような切断は、90年代のアニメ「エヴァンゲリオン」が得意とする演出でもありました。SFのような荒唐無稽な設定でありながら、突然予定調和を突き崩すような不幸や残酷な場面に遭遇し、主人公の碇シンジと同じように動揺するのです。そしてその切断された「生の感覚」は、フィクションやファンタジーを超えてとことんリアルでした。

2.巨人の「世界は残酷」

 エヴァンゲリオンよりも10年近く後に連載が始まった「進撃の巨人」は、その設定のユニークさや独特のキャラクターで人気を博しましたが、同じようなファンタジーでありながら「リアルな感触」を持っていました。それはエヴァや鬼滅の刃と同様に、理不尽な世界の残酷さを持っていたからです。この場合は鬼ではなく「巨人」でした。

 主人公エレンは特に物語の初期の頃は、人間の巨人に対する非力さと、何も考えずに人間をただ食べる巨人の横暴さに絶望していました。「世界は残酷だ」という認識は、進撃の巨人の世界では生きるための本当に始めに必要なものだったからです。この巨人と人間との関係は、鬼滅の刃の鬼と人間の関係によく似ています。鬼殺隊が、調査兵団に代わっているだけです。しかも調査兵団も「巨人に負け続けていて何の成果なし」という状況も、130年間上弦の鬼を倒せなかった状況によく似ています。

 進撃の巨人は話が進んでいくうちに、巨人の謎がだんだんわかっていくことでストーリーとしては複雑になっていますが、代わりにあの突き放されたような突然の「切断」がなくなっていきます。ですが、おそらく作者としての話の起源は、「世界は残酷」のような認識だったのではないかと思います。

 巨人が無類の強さを誇って人間を食べ、そして殺してしまう状況に対して、人間が立体機動装置のような道具でなとか立ち向かう、という姿は鬼滅の刃の鬼殺隊の命をかけた戦いの覚悟に近いです。彼らは日輪刀ではなく、カッターナイフのような替え刃のスナップブレードを持って巨人の首を切り落とすのです。そして命を懸けることを「心臓を捧げよ」という言葉で覚悟を示します。このあたりの終末観は、「兵団」という言葉を使っているのでより特攻隊のような印象があります。

3.贄として生きる上での残酷さ

 鬼のような人間を超えた能力を持つ化け物と戦うといえばエヴァよりも10年も前から連載を開始した「ベルセルク」があります。ベルセルクでは、人間であるガッツが、人外の魔物である「使徒」や悪魔に近い存在の「ゴッドハンド」と戦うという中世のヨーロッパのような世界観のファンタジーです。

 使徒と呼ばれる魔物は、鬼滅の刃の鬼のように強く、それを生み出すゴッドハンドに至っては、鬼舞辻無惨よりも遥かに人間を超越した存在の「悪魔」です。それに対峙するガッツは人間で、そのような魔物と戦うには圧倒的に不利です。しかしながらガッツ自身も人間の中ではかなり強靭な肉体と剣技を持ち合わせてそのような魔物と戦う「足掻く者」なのです。

 ガッツは、贄(にえ)としての烙印があるおかげで、闇の化け物に常に命を狙われる存在です。そのため、いつも戦わなければ生き残れず、もはや「生きる上での残酷さ」と言ったら鬼滅の刃どころではありません。

 しかしながら、このガッツの生きる上での覚悟やギリギリの使徒との戦いには、鬼滅の刃の鬼の存在の理不尽さと似通ったものがあります。それは、あの突き放されたような「切断」が付きまとうからです。ベルセルクの初期のエピソードでは、せっかく助けた少女が悪魔に取りつかれて殺さなければならなくなるシーンがあります。このような理不尽さは、ガッツを震えさせ、同時に皮肉っぽく笑わせるのです。「この世は残酷だ」と。

4.残酷さという「ふるさと」

 わたしたちの今の世界は、このようなファンタジーでもなければ、死との境にあるわけではないのに、何故このような切断されたような感覚を「リアル」に感じるのでしょうか。

 坂口安吾によれば、このような「切断」にわたしたちは「ふるさと」を見る、と言っています。(「文学のふるさと」)

 生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

  ふるさと、という言葉は、この残酷な世界を言い表すのには不適切のような気がするくらい、本来なら「安心や安堵、なつかしさ」を示すものです。しかし、安吾がこのふるさと、ということに込めているのは、「ここから始まる」ということです。

 わたしたちの「生」の根源にはどうしようもなく、このようなふるさとのような「救いのなさ」や「暗黒の孤独」があります。そしてそのような感覚に結びついていないなら、どんな物語もリアルには見えないのです。そしてここで紹介した3つの物語はそのような生の根源に根差しているからこそ、幻想ではないリアルな話として心に響くように思えるのです。

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