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押井守作品から読み解く『うる星やつら』の世界 -ユートピアというディストピア-

最近完結したが、ノイタミナの『うる星やつら』を毎週観ていた。

『うる星やつら』は地球外生命体で地球と比較して圧倒的な軍事力を保有する鬼族が地球侵略を仕掛けるが、あまりに力の差が圧倒的で面白くないので鬼族代表のラムとコンピュータで選ばれた地球代表の諸星あたるが鬼族の伝統である鬼ごっこにて一騎討ち対決を行い、あたるが勝てば侵略をやめ、ラムが勝てば地球を占領するという取引がラムの父から持ち掛けられるというところから始まる。

結果的に恋人であった三宅しのぶに勝ったら婚約という約束を持ち掛けられて奮起したあたるが(ちょっとズルい手段を使って)ラムに勝利する(しかし、それしか勝つすべはなかっただろう...)が、「勝って(しのぶと)結婚」というあたるの呟きを自分に対するものであると勘違いしたラムがあたるとの結婚を地球の運命を目撃しに来た公衆の面前で宣言して諸星家に居着き物語は始まる。

この物語にはお決まりの構図が存在する。

女性陣(潮渡 渚は今回は女性陣としてカウントさせてほしい)のアビリティが圧倒的に強く、怪力であったり、強力な電撃を放つことが出来たり、とにかく威圧感が凄まじかったりする。そして男性陣(藤波竜之介も男性陣としてカウントする)はそんな女性陣の強力なアビリティに振り回され、大抵なすがままになる。

そしてその女性陣には大抵お気に入りの異性がいて、彼らを自身の庇護下に置こうと日々奔走している。ラムはナンパを繰り返すあたるに電撃を放ち、ランはレイを餌付けせんと大量のご飯をこしらえ...。

この作品の根底にはこうした構図の他、『永続性』への願いという概念が大きな影響をもっていると思う。

例えばノイタミナ31、32話では各々が都合のいい未来を創ろうするが、普段奔放なナンパを妨げるラムから逃れようとしているあたるが結果的にラムと結ばれる未来を守ろうとしたり、しのぶがこのまま変わらない未来を望んだりした。

アニメを観ていて、「ずっとこの(ドタバタしているが)幸せままがいい」という願いはふんわりと作中のキャラクター全員が共有しているような印象を受けた。

加えて女性陣はお気に入りの異性の庇護を目標にしており、対象の意図せぬ行動、自立を防ぐような行動を結果的に取っている。女性陣のもつ巨大な母性、永続性の願いによって男性陣の成熟がキャンセルされているのだ。

そして最近、映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を視聴した。

ざっくり言うならば、これは押井守監督による彼自身の世界観解釈による、一種の『うる星やつら』2次創作だ。

あらすじとしては、ラムがずっとこのままで、と願ったことでそれが叶うとにかく滅茶苦茶で都合がいいループ世界に入り、真理を探究する終太郎以外は全員面白おかしく暮らすというものだ。最終的にはこの世界はラムに共感した夢邪鬼という妖怪によって作られた夢なのだと判明する。

この(連載し続けるためには仕方がない)ネバーランド的なループを自覚的なものにした事は原作が提示した永続性の願いというテーマを示していると解釈できる。

しかししのぶがあたるの母と親しくなった所で石像になったりと、現状を変更しようとした人間が消されていく事が、永遠にこのまま、何も現状を変更することなく幸せに生きていかなければならないという、原作者が世界観を作るうえでキャラクターに課した命令によるユートピア的ディストピアを表しているのかなと思った。現状変更を拒み人を消していけば最終的には誰もいなくなってしまうがラムは夢の中で現状変更を拒んだ。このままあたるが行動を起こさなかったら、最終的にはラムとあたる以外全員消えていたのではないかと僕は思っている。

そして最後、現実(原作世界を示している?)に戻ってあたるの失言にラムがブチ切れるいつものコメディに戻ろうとした次のシーンで夢邪鬼が登場してもしかして夢が続いている?という事を示唆して終わるが、ここで監督は映画で分かりやすく示したユートピア、ディストピアの二面性を持つ世界観は原作世界に存在する世界観なのだということを示唆したのだ。

もちろん、押井守はそもそもディストピアを好みそうなのでそういう若干意地の悪い解釈を映画にぶつけたという側面はありそうだが、実際原作世界と照らし合わせるとそういうものが基盤にあるユートピアであるという風にとらえられる。

以上の視点から、お気に入りの異性の成熟、自立を否定しこのままの関係でい続けること、『ビューティフル・ドリーマー』は女性陣が持つ母性のそういった側面を提示したと僕は考えた。

そうした側面は作中キャラをより魅力的にし作品を際立たせており、また連載を開始したりアニメが放映されたりした70年代後期~80年代の世相を反映しているようにも思えた。当時は高度経済成長が中東危機により終結したり東側陣営が態度を軟化させて雪解け期に入り人類滅亡の危機が去ったりということがあったことから察するに、これから先は良くも悪くも衝撃的な変化は起きずずっとこのまま生きていかねばならないという雰囲気があったのだろう。『うる星やつら』はそんなぼんやりとした気分を共有した若者たちにヒットした。

元記事:
5/21 『うる星やつら』の世界観の解釈 ディストピアによるユートピア
(私がはてなブログで以前書いた記事です)


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