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残響

 春日和が心地良いある日、ある若い夫婦がいた。ひっそりとしたアパート、メゾン205号室で静かな毎日を過ごしていた。

 夫は「久しぶりに旅行に行こうよ」と言い出す。最後に2人で旅行に行ったのは新婚旅行以来だろうか。この先2人でゆっくりできるのはいつまでだろうと、窓の外を流れる桜の雨がそうさせたのである。

 妻は最初「お金の無駄遣いだよ…」と言って拒んだが、インターネットで旅行の計画をたてるうちに、徐々に楽しみになってきたようだ。近郊にある温泉宿を予約した。1週間の旅行となった。ようやく2人の休みがとれ、出発の日がせまる。
 心配性の妻は空き巣対策をどうするかで考えあぐねていた。近づくと光るライトにするか。鍵を二重でかけてみようか。どれもインターネットに載っている。どれもいまひとつだった。

 妻は内緒で、普段の生活音を録音していた。朝や夜の音だ。料理をする音、洗濯する音、足音、他愛のない会話、テレビを観ては笑いあう、ドライヤーで髪を乾かす音、この家も好きだけどそろそろ違う家に引っ越したいね、と言う妻の声。メゾン205号室はそんな音で満ち溢れていた。

 出発する日の朝、妻は録音した音声データをCDに焼き、プレイヤーをエンドレス再生にして家を出た。

 2人は事故にあい、旅先で死んだ。車が転落する一瞬の間、かけがえのない生活に思いをはせた。まさか久しぶりの旅行が、不帰の客になるとは思わなかった。もうあの家には戻れない。裕福な暮らしではなかったけど、静かで好きだったあの暮らしができなくなることを知る。暗い世界に閉じ込められ、もう2度と光の世界に戻ってこれない。さみしさとはまた違うのを感じた。今生の別れにしてはあまりにも早すぎる。たとえ死んだとしても、無意味だった今までの生活が価値のあるものにさえ感じていた。

 車は谷の奥深くで発見された。しばらくは事故にあったことさえ気づかれず、そして損傷が激しく身元が判明しない。
 警察や不動産会社が立ち入るまで、無人の部屋は灯りが点いたまま、2人の生活音が流れていた。会話が絶えない。会話、会話、会話、この部屋も好きだけどそろそろ引っ越したいね、ドライヤーの音。
 誰もいない部屋で穏やかな生活がエンドレスで再生されていた。人々がその部屋に入ったとき、この世にないものが思いもよらない形で残されていたことを知る。

 誰も隠してはいないが、誰の目にも触れられない。何事もなかったかのように過ぎる寂寞たる現実がある。他人にとって何も価値がない。特別なものなんてどこにもない。無人の部屋での2人の声は、この2人にとっても、人々にとっても無意味なものとなってしまった。ただその2人の日常的で他愛のない会話が、かげがえのないものとして形見に変容しただけのことだった。そのとき、無人の部屋で流れる2人の声が停止された今、静かな毎日を取り戻したが、2人の声は今もなおそこにあるような気がした。

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