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【世界史】ざっくりオスマン帝国史#12 10代スルタン、スレイマン1世 前編
怒涛の8年にも及ぶ治世をすごしたセリム1世が亡くなり、その後継者となったのがスレイマン1世です。このスレイマン1世は、オスマン帝国の黄金期をささえた一番有名なスルタンです。
スレイマン1世の異名は「壮麗王」でした。なんだかかっこいいですね…。
そんなスレイマン1世についてみていきます。
ベオグラードとロードス島の征服
スレイマン1世はオスマン帝国の黄金期をささえただけあって、その治世は長くなんと46年!
この長い治世にも色々起きるんですが、まず彼はスルタン即位後まもなくして、バルカン半島のベオグラードという都市、そしてロードス島を征服します。特にこのベオグラードという地は、オスマン帝国によるヨーロッパ遠征の拠点になります。
またロードス島というのは、ヨハネ騎士団というキリスト教の宗教騎士団の本拠地で、東地中海を通ってるムスリム商船を襲ったりしてたんで、規模として小さいながらも、オスマン帝国によって嫌がらせをしてきている場所であったため、このロードス島を征服する必要があったのです。
イブラヒム・パシャの登場
ベオグラードとロードス島を征服したスレイマン1世ですが、何も彼一人でなし得たものではありません。ここで重要な人物が出てきます。
イブラヒム・パシャという人物です。
スレイマン1世が王子だった時代からスレイマン1世の右腕として、スレイマン1世を陰から支えた人物であって、スレイマン1世がスルタンに即位し、ベオグラードとロードス島を征服するに至ったのもこのイブラヒム・パシャの助言によるものといわれています。
そんなイブラヒム・パシャを大宰相に任命して、スレイマン1世に次ぐナンバー2としてオスマン帝国の内外を支えていきます。
しかし、このイブラヒム・パシャは政治の経験が全くなく、ただスレイマン1世と仲良しってだけで、大宰相の地位に上り詰めた人物なので、これをよく思わない人がいました。アフメト・パシャという宰相です。このアフメト・パシャもロードス島の征服にも一役買っていたので、大宰相になるのも時間の問題だったのですが、これに割って入ってきたのがイブラヒム・パシャだったわけです。
というわけで、アフメト・パシャはもうめちゃめちゃ怒って、エジプトで反乱を起こすんですね。しかしこれはすぐ鎮圧されてアフメト・パシャは処刑されてしまいます。
ハプスブルク家との衝突
こうしてスレイマン1世とイブラヒム・パシャによって政治基盤をじっくりと固めるのに成功した後、スレイマン1世の最大の特徴となるヨーロッパ遠征に乗り出すわけですよ。
ベオグラードに次ぐ標的は、ハンガリーでした。その総司令官に選ばれたのはもちろんイブラヒム・パシャなんです。
ベオグラードというヨーロッパ遠征の本拠地を手に入れたオスマン帝国にとって、ハンガリー遠征の最大のチャンスだったのです。ハンガリーのモハーチという地で、オスマン帝国軍を迎え撃ったのは、ハンガリーとボヘミアの王、ラヨシュ2世である。この激闘の末、オスマン帝国が勝利しました。その勢いでハンガリーの首都、ブダを征服することに成功しました。これをモハーチの戦いといいます。
だからといって直接支配するわけでなく、代わりにオスマン帝国を支持する政権をかわりに置いて間接支配を目指します。
オスマン帝国はハンガリーの支配をトランシルヴァニア公サポヤイという人物に任せます。
しかしこれに異を唱える勢力がキリスト教圏のほうにいたんですよね。
ハプスブルク家です。
ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナント(神聖ローマ皇帝カール5世の弟)という人物ですが、モハーチの戦いで死んだハンガリー王の姉と結婚したので、自分こそが次のハンガリー王であると主張したのです。
ハプスブルク家に関するくわしい説明は省きますが、ハプスブルク家のやり口として、他国の王女と結婚して婚姻関係を利用して領土をどんどん拡大していくというやり方でした。
このフェルディナントの登場によりついに勃発します。
オスマン帝国 vs ハプスブルク家
の強大な2帝国による戦争が勃発します。
このフェルディナントの起こした異議を受けて、スレイマン1世はめちゃめちゃ怒って、ハプスブルク家の本家本元であるオーストリアの首都、ウィーンにむけて大遠征をすることとなります。
これを第一次ウィーン包囲というわけですが、この遠征に従軍したオスマン帝国軍はなんと15万人!
あのメフメト2世のコンスタンティノープル包囲でも10万人程度でしたので、それをはるかに超える超一大遠征です。
実際にスレイマン1世はウィーンにむけて出発するのですが、運の悪いことに、天候が悪くてウィーンに着くまでに結構時間がかかってしまって、到着したころにはフェルディナントはすでにウィーンから脱出していて、それでも3週間ぐらいウィーンを包囲するんですけど、でもオスマン帝国軍も補給が限界にきていたこともあって、これにはスレイマン1世も撤退を余儀なくされるのです。
この続きは次回、「ざっくりオスマン帝国史#13 10代スルタン、スレイマン1世 後編」にて解説します。
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