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小説読んでいていつも気になることが2つや3つある。

小説を読んでいて本筋から外れてどうでも良いことが気になってしまう。それは作品の面白さに直結するものではなく、僕が勝手な妄想をしているだけである。それってあなたの感想ですよね?やそれはただの深読みでは?と言われてもなんのそ。上等だ!!!

と、大上段に構えているが、ただの読書好きの一般人なので、評論するつもりはなく、「僕が小説を読んでいていつも気になること」だと思ってこの記事はお読みいただきたい。あくまで読者目線での話である。

登場人物の住んでいる部屋の間取りが気になる

東京や地方都市でひとり暮らししようとなると、一般的な会社員なら大体の間取りや家賃は限られてくる。登場人物が住んでいる家や間取りの描写があると「都会のひとり暮らしでこの間取り!?」と気になってしまう。物語自体に直接関係ないのにこういうところが気になってしまう。西村賢太『苦役列車』の主人公・北町貫多は、19歳で日雇い労働で生計をたている青年だ。8時〜17時の日雇いで日当5500円の収入を得ながらアパートを点々としなが生活する様が描かれている。日当5500円という物価の違いに頭がクラクラしそうだが、「ま、その経済力ならこのぐらいの生活水準になるよな」と納得ができる。

主人公の一人称視点で相手の家やアパートを訪れたとき、外観や間取りの説明描写がされる。その折、「え!?ひとり暮らしでこの間取り???」「都内でそんな広くて綺麗なマンション!いくら稼いでいるのだ!!!」「普通のアパートだけどその間取りならセキュリティがしっかりしたところ住めるんじゃない???」など、どこか親近感が持てない間取りが気になる小説がたまにある。

米澤穂信『氷菓』の主人公・千反田えるの「私、気になります!」が口癖だが、僕と彼女は同じ次元で生きていたのかもしれない。

たぶんそこは固有名詞使わんほうがいい

最近、小説でもTwitterが固有名詞として登場するようになってようやく市民権を得た感じがある。しかし、ご存知の通り、TwitterはXと社名が変更された。Twitter(現・X)やX(旧・Twitter)と表記揺れが発生する有りようである。小説というフィクションで「会員制交流サイト」と言わずに「Twitter」という固有名詞を使っていると「なかなか強気だな」と思ってしまう。これが100年先になったら必ず注釈で

会員制交流サイトのことで、登録された利用者同士が交流できるWebサイトの会員制サービス

なって、現代の流行り言葉に乗っかると読者としてはわかりやすい反面、時代を経て「あったね〜そんな言葉」ならまだ良い方で、「こんな時代にそんなのがあったんか」と言われかねない。

この間、何かの番組で昭和のデパートにはデパートガールがいたと紹介していたとき「デ、デパートガール…?」と違和感を持ったくらいだ。要はデパートの総合案内所にいる受付嬢のことであるが、昔の流行りに現代の感覚が追いつかない時がある。

急に出てきましたけどあなたはどちらさんですか?

一読者としての意見だが、主要人物以外のモブキャラの人物描写はあまりいらないと思っている。とっちらかるからだ。読み終わったあと「あれ、あの人は結局だれやった?」となる。ここ10年くらいの小説はありがたいことに導入ですんなり入れるよう人物描写が細かくてすごくありがたいのだが、森鴎外や太宰治、夏目漱石くらいの時代の小説を読むと「あれ、急に出てきたけどどちらさん???」っていう人が出てきて何度も読み返しても「???」となる。その人物の登場によって物語が急展開するわけでもないし、なんならヌルッと去っていく。まるでいなかったかのように。

と、まぁ、3つほど、僕の小説読んでいて気になることについて書いてみましたが、この記事を読んでくださった方もどこかで「あ、そういえばそうかも」と思っていただければ幸いである。

何年ものの歴史に鍛錬を重ね、現代まで生き抜いた文芸には思想があり、学べるものがあれば、いろんな読者や評論家によって考察がなされ権威付けされて価値のある作品を作者だけでなくみんなが作り上げていることに一端の読者のとしては読んでいてとても趣深いものを感じる。小説をどのように読んで、どのような感想があっても良いと思っている。

今日も僕は小説の不思議な世界に浸っている。

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