2.坤為地(こんいち)~大地を駆ける牝馬②

六十四卦の二番目、坤為地の爻辞です。
卦辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n5a6725f708ad

2坤為地

主爻

主爻は六二です。乾に対して絶対的に柔順であり、乾の剛強なる元気のはたらきを受けて、そのはたらきを遍く四方八方に広げるものです。

初六

霜を履みて堅氷至る。
象に曰く、霜を履みて堅氷とは、陰始めて凝(こお)るなり。其の道を馴致(じゅんち)すれば、堅氷に至るなり。

(冬の始まりは)霜を履む(程度に陰気は微弱なるものであるが、やがて)堅い氷に至る(ほど強くなっていく)。
象伝に曰く、「霜を履みて堅氷」とは、(微弱なる)陰気が初めて凝り固まることである。そしてその(陰気の浸食)に慣れて油断すれば、(やがてその陰気は)堅い氷(を張る)に至る。

陰を良い意味で用いる場合と、悪い意味で用いる場合がありますが、この初六と、最後の上九においては、薄気味悪い意味での陰を端的に表現しております。当初は微弱なるもので、喩えて言えば明け方の地上に薄っすらと霜が降りている程度のものですが、これを放置すれば徐々に周囲を浸食し、やがて大きくて堅い氷となって人の社会生活を脅かします。乾為天の爻辞では、龍の話が九二、九三と続いていくのですが、この坤為地においては陰の良い面をも語る必要がありますので、六二からはガラリと場面が変わります。

六二

直・方・大なり。習はずして利しからざる无し。
象に曰く、六二の動は、直にして以て方なり。習はずして利しからざる无しとは、地道(ちどう)光(おおい)なるなり。

(坤の大地は)真っ直ぐであり、(東西南北の四方に)正方形の形で広がり、かつ極めて広大なるものである。(このような徳を体現したる者は)学習することを待たずとも、その利を得ることがなかろうはずはない。
象伝に曰く、六二の(坤の大地の)活動は、(乾の元気を受けて)真っ直ぐに(従い)かつ四方に向かって(従い進む)。「習はずして利しからざる无し」とは、坤の(体現したる)道が極めて光大なることである。

六二から六五までの間は、陰の良い面を語る物語となります。直とは、真直ぐなことです。乾の元気を受けて、己の意志を微塵も加えずに、ただひたすらに乾の意志を受けて真直ぐに元気のはたらきを映写していきます。方とは、その真っ直ぐなはたらきが四方に遍く行き渡ることです。四方均等に行き渡れば、その全体の形は正方形となります。大地は、マクロな視点でみれば地球の球体ですが、ミクロな視点でみれば巨大なる正方形です。大とは、広大なることです。中国大陸は、極めて広大なるものです。これら直方大のはたらきは、全て乾のはたらきを坤が柔順に受けたるものであり、坤の意志を映し出したるものではないのです。

六三

章を含みて貞にす可し。或は王事に従ひ、成す无くして終る有り。
象に曰く、章を含みて貞にす可しとは、時を以て発するなり。或は王事に従ふとは、知光(ちこう)大なればなり。

(内なる)美徳を包み(隠して)堅く守り通すのがよろしい。時には王の職務を柔順に補佐して、(それを自分自身の)手柄と成すことなくして成就させるのがよろしい。
象伝に曰く、「章を含みて貞にす可し」とは、(自身の美徳を常に隠し通すことではなく、それを表に出すべき)時には(遠慮なく)発揮すべきであることをいう。「或は王事に従ふ」とは、(六三)の知恵が光り輝くほど広大であることをいう。

六三は、己の能力や才能を包み隠して、ただひたすらに王の仕事を補佐するものです。主人公はあくまでも剛強なる乾の王であり、陰なる六三は柔順にして王に順うのです。しかし、その能力を露わにすべき時機が至れば、遠慮なく露わにして、遺憾なく発揮すべきなのです。

六四

嚢(ふくろ)を括(くく)る。咎も无く誉(ほまれ)も无し。
象に曰く、嚢を括る、咎无しとは、慎みて害あらざるなり。

(己の知恵や能力を)袋に括って(隠し通す)。災いもなければ誉れを得ることもない(が、それが一番よろしい)。
象伝に曰く、「嚢を括る、咎无し」とは、慎んで(謙遜することで、自分に)害が及ばないようにすることである。

六四は、天子の位である五爻のすぐ真下にあり、下手をすれば天子の立場を脅かす、極めて危い位置にあります。六三と同じく、万事控え目にして、天子を補佐することに徹するべきです。もし利己心を少しでも露わにして、己の才能を見せびらかすようなことがあれば、天子の怒りを買ってたちまちに災いが降りかかることになるでしょう。

六五

黄裳(こうしょう)、元吉なり。
象に曰く、黄裳元吉とは、文、中(ちゅう)に在るなり。

(最上位の天子が)黄色の袴(の如くへり下る)。(そのようであれば)大いに吉。
象伝に曰く、「黄裳元吉」とは、(天子の徳の)彩が中庸の位置を得ていることである。

黄色は、木火土金水の五行で言うところの「土」を表す色です。坤は大地の象ですから、五行に配当すれば土であり、土は五行の中心に配置されるものです。つまり黄色は、柔順中正なる天子を表す色であり、かつ柔順にしてへり下っているのですから、その態度を着物で表せば、上着ではなく、袴が相応しいのです。黄色の袴は、柔順にして万民を包容したる天子が、その中正なる徳を遍く発揮したることを喩えるものです。

上六

龍、野に戦ふ。その血玄黄(げんおう)なり。
象に曰く、龍、野に戦ふとは、其の道窮まるなり。

(初六の霜が堅氷に至った陰気が)龍となり、野において(陽気の龍と)戦う。(お互いに傷付いた龍は)漆黒と黄色の血を(それぞれ)流す。
象伝に曰く、「龍、野に戦ふ」とは、(陰の)道が窮まったのである。

場面は再び、悪い意味での陰の話に戻ります。初六において霜が徐々に周囲を浸食し、堅い氷に至って、その巨大化したる陰の力は遂に、陽の龍に匹敵するほどにまで成長したのです。陰が窮まれば、陽と見間違うほどの威力を有する存在となって、陽の龍と戦うことになるのです。陽の龍と陰の龍は、野にあって戦い、そしてお互いに血を流します。陽の龍の流す血は玄、すなわち天をあらわす漆黒です。陰の龍の流す血は黄、すなわち五行の土をあらわすものです。

用六

永貞(えいてい)に利し。
象に曰く、用六永貞は、大を以て終るなり。

(柔順にして)正しく堅き道を永遠に守り通すのがよろしい。
象伝に曰く、用六の永貞とは、(そうすることによって)光大(なる業績)を挙げて成就するのである。

六十四卦、三百八十四爻全ての陰に共通すべき徳を説いたものです。大を以て終る、の大は、陽を表す言葉です。乾為天の用九においては、陽が陰徳を発揮すべきことを説いておりました。この用六においても同様であり、陰が陽徳を発揮すべきことを推奨します。つまり坤為地の陰徳は、それ単独では何事も成就し得るものではなく、剛強にして疲れを知らない乾の元気を受けてこそであり、ただ柔順なるだけでは、何物をも創造し得ることはないのです。乾の飛龍が力尽きて地に堕ち、そうして坤の柔順なる徳を学んで体現することによって、ようやく両極端を知ることとなり、そこで初めて中庸を知るのです。

まとめ

初六と上六は日陰の陰、六二から六五までの間は日なたの陰、どちらもまごうことなき陰の真なる姿です。太陽の当たらない影の部分があってこそ、太陽の当たる眩しさが際立つのであり、また元気のはたらきを包容して産み育てる機能があってこそ、元気はそのはたらきを発揮し得るのです。

陰陽二元論とは、陰と陽という二種類の気が物理的に存在することを示しているのではなく(昔の人は物理的に存在すると考えていたのでしょうが)、この世界の成り立ちが「Aであるもの(主体)」と「Aでないもの(客体)」との関係性であることを示しているものです。これを客体の側(例えばB)から見れば、Bが主体であり、Aは客体となります。この世界の一切は、AとBとの関係性が無数に存在して成り立っているということです。そして、主体となる存在は、意識を有するものであり、つまり人間です。客体を物質として探求し、それ自体に実在があると考えるのは極めてナンセンスであり、人間の意識が限りない関係性を生み出し、それが世界を構成しているのです。陰陽二元論とは、その根源を端的に表しているものです。

乾為天と坤為地は、この世界の成り立ちを解明する総論となるものであり、続く水雷屯の卦から以後は、各論が続きます。そして六十四卦の最後は火水未済、すなわち未完成の卦であり、そこからまた水雷屯に戻って永遠の循環を繰り返すのです。この世界は、一瞬たりとも完成することはないのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。