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5.水天需(すいてんじゅ)~時の宜しきを待つ余裕①

六十四卦の五番目、水天需(すいてんじゅ)の卦です。
爻辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/ncc97aa889147

5水天需

1.序卦伝

物の穉(おさな)きは養わざる可(べ)からざるなり。故に之(これ)を受くるに需を以てす。需とは飲食の道なり。

前の卦の山水蒙(さんすいもう)は、幼きものを育てる意味を持つ卦でありました。幼きものを育てるということは、とても時間のかかることであり、忍耐を要します。かつ、養い育てるには衣食住などの世話を要します。

ここで「需」とは、「待つ」という意味と、「(幼きものを育てるための)必需品」という意味がありますが、卦辞は前者に重きを置き、序卦伝は後者に重きを置きます。しかし、山水蒙のプロセスに包含される「需」の意味するところは、待つことでもあり、衣食住を整えることでもあります。ゆえに両者は別々ではなく、一体不可分のものです。

2.雑卦伝

需は進まざるなり。

今すぐに進んで行くべき時ではなく、しばらく待っているべき時である、という意味です。

3.卦辞

需は孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。貞(てい)にして吉。大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よろ)し。

水天需は、外卦が坎の卦(水)で、内卦が乾の卦(天)。坎の性質は「陥る」であり、乾の性質は「積極的に活動する」です。積極的に活動したいのですが、往く先を遮るものがあるのです。ですから、立ち止まって待たねばならないのです。「待つ」ということが、この水天需の大きなテーマです。

天の上に雲(水)があります。雲の役割は、恵みの雨を降らせて地上の万物を潤し育てることです。現時点では、雨は降っておりません。しかし、もう間もなく降るでありましょう。時間の問題でありますから、ここはデンと構えて待つのです。今はとにかく「待つ」ということが、時の宜しきに叶っているのです。

健やかであり、猛々しく、どこまでも止むことなく活動し続ける乾の卦は、本来は「待つ」ことをしません。そこに「待つ」ことの重要性が際立つのです。普段は立ち止まって待つはずのないものが、「今はまさしく『待つ』ことのみが宜しきに叶うことである」と意を定め、勇み足を止めるのです。そこに大きな意義があるのです。陰の気は、消極性の象徴ですから、待つのは当たり前です。しかし陽の気は、積極性の象徴ですから、待つということは本来は有り得ないのです。しかし、今はまさしく待つときであるので、待つのです。筋が通っているのです。真の積極性とは、蛮勇ではありません。消極性をも兼ね備えた積極性ことが、真の積極性なのです。

その筋の通り具合は、坎の卦に鏡像のごとく映し出されております。坎の卦は「陥る」性質であり、あまり喜ばしい意味を持ちませんが、しかし一方で、真ん中にある一本の陽爻は、筋が通っているという意味を有しております。何らかの充実したるものが、真ん中を一本貫いているのです。人の心で表現するならば、邪念の中に貫かれた「誠」の念です。すなわち坎の卦は、落とし穴として乾の卦の往く先を阻む一方で、乾の卦ないし陽の気が有する「誠」を映し出しており、その威光はまことに華々しきものであるのです。それが「需は孚有り、光に亨る」です。

待つということは、刹那的なものではありません。持続的なものです。それが「貞にして吉」です。何もせず、ただ黙って永遠に待つのではありません。待っているときであればこそ、成すべきことがあります。立ち止まっているからこそ、見える景色があります。前のめりに進んでいたときには気付かなかったようなことに、気付くこともあるでしょう。待つということは、何もしないことと同義にあらず。立ち止まっているときにしか成し得ないことを、成すのです。そう考えれば、待つということは、決して退屈なものではなく、むしろ喜ばしいものです。互卦の内卦(二・三・四爻)は兌の卦(沢)であり、兌の性質は「悦ぶ」です。同じく互卦の外卦(三・四・五爻)は離の卦であり、離の性質は「明らか」です。悦んで待つことで、明らかになることがあるのです。

そして、宜しき時を得て、再び前に向かって動き出すのです。待つべきときに待ち、動くべきときに動くのです。良質な消極性と、良質な積極性とのマッチングです。如何様な難問をも解決することができるでしょう。それが「大川を渉るに利し」です。易経は、中国の古典です。中国の大川は、まるで海と見間違うほどの巨大な川です。無理に渡ろうとすると、命を落とす危険性を孕んでいるような、そんな恐ろしい川です。しかし、待つべきときに待つことによって、そんな大川を事故なく渡ることができるのです。

4.彖伝

彖(たん)に曰(いわ)く、需は須(ま)つなり。険(けん)、前に在るなり。剛健(ごうけん)にして陥らず、その義困窮(こんきゅう)せず。需は孚(まこと)有り、光に亨(とお)る、貞(てい)にして吉とは、天位(てんい)に位するに、正中(せいちゅう)を以てするなり。大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、往(い)きて功(こう)有るなり。

水天需は「待つ」のですが、いつまでも待つわけではありません。往く先に険難(坎の卦)が控えているので、時の宜しきを待っているだけなのです。今はとにかく待つことが最善であるから、一時的に待つのです。それが「需は須つなり、険、前に在るなり」です。ただ待つだけではなく、待っているときであるからこそ、見える景色があり、成すべきことがある、というのは上に挙げた通りです。

待つということは消極的な行為ですが、ここでいう「待つ」とは、むしろ積極的であればこその行為です。積極性と軽挙妄動は、イコールではないからです。待つことに、筋が通っているのです。その筋とは、内卦の乾の卦が本質的に有する健やかな猛々しい徳であり、あるいは外卦の坎の真ん中を貫く充実した陽爻です。焦りや不安に心を奪われて、思考停止に陥り固まって動けないのではないのです。高い視点をもって、中長期的なスパンで熟慮を重ねたうえでの、最良の選択としての「待つ」なのです。とにかく行動の選択として筋が通っているのです。それが「剛健にして陥らず、その義困窮せず」です。困窮せず、どっしりと構えて待つのです。

外卦の坎の真ん中を貫く一本の陽爻は、五爻目(下から五番目)にあります。五爻目は、聖なる天子の位置です。六本の爻のうち、最も位の高いものです。外卦の真ん中に位置しておりますので、強すぎず弱すぎず、中庸を得ております。五という数字は奇数であり、奇数は陽を象徴するものです。ですから五爻目が陽であることは、正しい位置に正しい爻が置かれていることになります。これは水天需が、時の宜しきを得て「(一時的に)待つ」選択をしていることが、全くもって正しいことであることの証左でもあります。それが「需は孚有り、光に亨る、貞にして吉とは、天位に位するに、正中を以てするなり」です。

そして、もはや「待つ」ことを経た後の結果は、自ずから明らかです。失敗のしようがありません。失敗しないために待ったのです。そして時の宜しきを得て、再び動き出すのです。大きな川を渡り、その先の向こう側へと進んでいくのです。それが「大川を渉るに利しとは、往きて功有るなり」です。

5.象伝

象(しょう)に曰(いわ)く、雲、天に上るは需なり。君子以て飲食宴楽(えんらく)す。

外卦の坎の卦は、雲です。天の上に雲があります。恵みの雨は、まだ降ってはいないのです。しかし、もう間もなく降るであろうことは明らかなのです。

君子は、この水天需の卦をみて、今はとにかくむやみやたらに焦って軽挙妄動するときではないことを覚り、むしろ酒を飲んで美味しいものを食べ、遊び騒いでしまえとばかりに楽しんで時を過ごすのです。勿論これは比喩であり、心安らかに修養し、待っている間であればこそ成せることを成すべし、ということを説いているのです。

6.最後に

この卦の大きなポイントは、五爻目の陽爻です。五爻目は聖なる天子の位であり、五は奇数、奇数は陽でありますから、五爻目が陽爻であることは正しい位置であり、かつ外卦の坎の卦、すなわち険難の中に一本の充実したる筋が通っている、この剛強なる一本の筋が心を貫いているからこそ、「待つ」ことを恐れず、慌てず、飲食宴楽し得るのです。しかしながら、この五爻目には大きな欠点があります。五爻目と対をなす二爻目が、同じく陽爻であることです。これがこの卦の最大の欠点であり、「待つ」ことを強いられている所以です。陽爻と陽爻の同士は、磁石のS極同士あるいはN極同士のごとく、反発し合うのです。だから、何かが噛み合っていない状態なのです。だから待たねばならないのです。これが噛み合う、すなわち二爻目が陰爻になると、内卦は離の卦(火)となり、水火既済(すいかきさい)という完璧なる配置の卦となるのです。水火既済は、物事の完成を表す卦です。だから、待つことによって、ベクトルは確実に完成への道に向かっているのです。しかし、完成してしまえば、もうそこで仕事はお終いであり、あとはもう衰退するのみです。何事も未完成のうちが華なのです。待つということは、着実に完成へと向かうプロセスであり、人生の華なのです。だからこそ、焦らず騒がず、飲食宴楽する余裕をもって臨むぐらいがちょうどよいのです。

さて、この卦を上下に引っくり返すと、あるいは上下の内卦と外卦を逆にすると、どちらも天水訟(てんすいしょう)という卦になります。天水訟の訟は、訴訟の意です。人と人との間のトラブルが生じることです。

この変化は、二通りの解釈が考えられます。一つ目は、水天需の「待つ」ことが時の宜しきであるのに、それを破って無理やり動いてしまうことによって、待つことの利を得ずしてトラブルになってしまう、ということです。待つべきときは、待つべきなのです。急がば回れ、待たずに軽挙妄動することによって、無用のトラブルを招き寄せ、かえって遠回りしてしまうことになるのです。

二つ目は、不本意にしてトラブルに巻き込まれてしまったとき、相手から喧嘩を吹っ掛けられてしまったとき、そういうときの我が心の在り方として、水天需であれ、ということです。相手のある話ですので、待つべきかどうかはともかくとして、軽挙妄動しないこと。相手の術中にはまらないこと。どっしりと構えて、まさしく飲食宴楽するが如き心持ちで、粛々と対処することです。水天需の卦は、冷静沈着をもって「達観する」ことを教える卦でもあります。「待つ」こと、そして「達観する」こと、これらの根は同じなのです。

そして、水天需の陰陽を逆にすると、火地晋(かちしん)の卦になります。火地晋は、地上に太陽が昇っている形です。同じような形で火天大有(かてんたいゆう)という卦がありますが、火天大有は頭上に太陽が在る状態であり、火地晋は太陽が東から真南へ昇っている最中、というようなニュアンスの違いがあります。

これをどう解釈するかというと、時宜を得て待つということは、まさしく太陽が東から真南へと昇るプロセス、これを人が為すべき何らかの行動の比喩であるとすると、その行動の一環として必須の選択肢である、ということになるでしょう。時宜を得て待つということは、すなわち着実に前進していることと全く同義なのです。だから焦ってはいけないのです。君子はこのようなときは、飲食宴楽の心持ちでいるべきなのです。

以上、生卦(内卦と外卦を引っくり返すこと)・綜卦(卦の形を上下逆さまにすること)・裏卦(陰陽を逆にすること)それぞれの解釈を挙げましたが、これらはいずれも一つの事例です。易の真髄は、柔軟な解釈です。時と処に応じて、百人百様の解釈が有り得るのです。ここに挙げた解釈が唯一絶対の正解ではありません。あくまでも一つの参考例に過ぎません。

待つ、といっても、具体的に何を待つのか、という点においても、色々な解釈が有り得るのです。人を待つことかもしれませんし、物事が生じるのを待つことかもしれませんし、行動の途中で歩みを一旦ストップすることかもしれませんし、自分自身の心の内に何かがぼんやりと現れてくるのを待つことなのかもしれません。

待つことが最善であるときは、とにかく有無を言わずに待て。これが水天需の結論です。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。