31.沢山咸(たくざんかん)~resonance(共鳴)②

六十四卦の三十一番目、沢山咸の爻辞です。
卦辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n4c0531953663

31沢山咸

主爻

主爻は九四です。身体の五感によらず、心をもって感ずる道を説きます。

初六

其の拇(ぼ)に咸ず。
象に曰く、其の拇に咸ずとは、志、外に在るなり。

足の親指に感ずる。遥か遠方より微かなる気配を感ずる。

応ずる九四の気配を感じてはいるのですが、その気配は極めて僅かなものであり、せいぜい足指の爪先に感じる程度のものであるので、初六はみだりに動かず、時の宜しきが来たるのを待つのです。

六二

其の腓(こむら)に咸ず。凶。居れば吉。
象に曰く、凶なりと雖(いえど)も居れば吉とは、順なれば害あらざるなり。

ふくらはぎに感ずる。凶。ただし柔順にして安んずれば吉。

ふくらはぎは足の関節に従って動くものであり、自ら無理をして動こうとすると、痙攣してこむら返りになってしまいます。六二は九五と感応する関係にあり、初六よりも感度は高いのですが、軽挙妄動せずに柔順なる態度を貫くべきなのです。

九三

其の股(もも)に咸ず。其の随ふを執る。往けば吝。
象に曰く、其の股に咸ずとは、亦た處(お)らざるなり。志、人に随ふに在り。執る所下なるなり。

太ももに感ずる。従うべきものに従うのがよろしい。軽挙妄動は恥ずべきである。

艮卦の主爻であり、安らかに止まっているべきですが、応ずる上六に誘惑されて軽挙妄動する傾向があることを戒めております。六二は陰爻であり、妄動すること微弱でありますが、九三は陽位の陽爻であり、妄動が激しすぎるのです。

九四

貞しければ吉にして悔亡ぶ。憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋、爾(なんじ)の思(おもい)に従ふ。
象に曰く、貞しければ吉にして悔亡ぶとは、いまだ感の害あらざるなり。憧憧として往来するは、未だ光大ならざるなり。

正しい道を堅く守り通せば吉にして後悔することはない。縁故ある友との往来にのみ固執することは、その友だけが我に従う道であり、大いなる道ではない。

九四の爻辞のみ、身体の表現がありません。つまり形のない心そのものを表していると言えます。正しい道とは、私心のないことであり、あらゆる物事が来たれば、それに順応することです。九四が応ずる初六との交際だけに執着するのは狭い道であり、正しくはないのです。

九四(繋辞下伝)

繋辞下伝の第五章より抜粋します。

易に曰く、憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋、爾(なんじ)の思(おもい)に従ふと。子曰く、天下、何をか思ひ何をか慮らん。天下、帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし、致を一にして慮を百にす。天下、何をか思ひ何をか慮らん。日往けば則ち月来り、月往けば則ち日来り、日月相推して明生ず。寒往けば則ち暑来り、暑往けば則ち寒来り、寒暑相推して歳(とし)成る。往くとは屈するなり、来るとは信(の)ぶるなり。屈信(くっしん)相感じて利生ず。尺蠖(せきかつ)の屈するは、以て信ぶるを求むるなり。竜蛇(りょうだ)の蟄(ちつ)するは、以て身を存するなり。義を精(くわ)しくして神に入るは、以て用を致すなり。用を利し身を安んずるは、以て徳を崇(たか)くするなり。此れを過ぎて以往(いおう)は、未だ之を知る或らざるなり。神を窮め化を知るは、徳の盛んなるなり。

咸の卦の九四に曰く「憧憧として往来すれば、朋、爾の思に従ふ」と。孔子曰く、天下には何ら深く思い煩うべきことはない。天下の事象は、結局は同じところに帰着するのであるが、人はそれぞれ勝手に道を異なるものにしている。結果は一つであるのに、人が勝手に思い煩って百通りの道を作ってしまうのである。天下において、一体何を思い何を患うことがあろうか。日が西に傾けば月が来たり、月が西に傾けば日が来たり、日月が相互に入れ替わって地上が明るくなる。冬の寒さが往けば夏の暑さが来たり、夏の暑さが往けば冬の寒さが来たり、寒さと暑さが相互に入れ替わって一年は成就する。往くとは、屈することである(永久に去ることではない)。来るとは、伸びることである(永久に残ることではない)。屈することと伸びることが相互に入れ替わることによって利を得られるのである。尺取虫が屈して小さくなっているのは、伸びて前へ進もうとするためである。龍や蛇が地中に深く潜るのは、自分の身を保存するためである。聖人が天地自然の道理を深く研究して、神妙不可思議なる境地にまで探求するのは、それを十分に活用して大いなる事業を成就するのである(義を精しくして神に入るは屈するのであり、用を致すは伸びるのである)。そうして事業が成就して、かつ自分の身は安泰にしていられるのは、その体得したる徳がますます高く大きくなるからである。これより更なる高みは、人の知るべきところではない。天地の神妙不可思議なる道理を探究し、万物の生成化育する妙理を知ることは、偉大なる聖人の徳が極めて盛んにして、天地と一体になることである。

九五

その脢(せじし)に咸ず。悔无し。
象に曰く、其の脢に咸ずとは、志、末(すえ)なるなり。

背中の肉に感ずる。その志は些末ではあるが、後悔することはない。

背中は自分の目線が届かない部分であり、感ずることが弱く、感動させることもありません。むやみに軽挙妄動するよりはましでしょうが、九五の聖人たるべき本来の道としては、枝葉末節であり、スケールの小さいものです。

上六

其の輔(ほ)頰舌(きょうぜつ)に咸ず。
象に曰く、其の輔頰舌に咸ずとは、口説(こうぜつ)を滕(あ)ぐるなり。

頬と舌、弁舌巧みなることをもって感ずる。

兌卦の主爻であり、顔の部分に相当します。心あらず、口先だけで相手を感応させようとする態度であり、喜ばしいものではありません。

まとめ

六爻いずれも多少なりの欠点があり、戒めの多い爻辞です。

要するに、感応し合うことを貴ぶ卦ではありますが、いたずらに軽挙妄動して感情に溺れてはいけないのです。心を鎮めて、居るべき場所に安んじ、そうして来るべきものに対して順応する境地であるべきことを説くのです。

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