20.風地観(ふうちかん)~大局を観る①

六十四卦の二十番目、風地観の卦です。
爻辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n3148f4535012

20風地観

1.序卦伝

物大にして然る後に観るべし。故に之を受くるに観を以てす。

地沢臨と風地観は、共に「観る(視る)」ということ、視点に関する示唆を与える卦です。地沢臨は上下の視点であり、風地観は水平的な四方八方への視点です。

風地観によって上下の視点が得られると、その次には上から四方八方をあまねく観る視点を得られます。あるいは自分自身が上にあれば、人が自分を四方八方から仰ぎ観ることになるのです。

2.雑卦伝

臨観の義は、或は与え或は求む。

地沢臨と風地観の二卦について述べている一文です。
詳細はこちらをご覧ください。
https://note.com/northmirise/n/n705217e44164#15qJ2

3.卦辞

観は盥(かん)して薦めず、孚有り顒若(ぎょうじゃく)たり。

この卦は、十二消長卦としては非常に悪い状況です。しかし、そのような解釈は卦辞において申すまでもないことであり、ここでは別の視点から解釈しているようです。

風地観の「観」は、周観、すなわち高い場所から四方八方をあまねく見渡すことを意味します。この卦の形は、上の二爻が陽爻で、下の四爻が陰爻です。パッとみると、物見やぐらのような形をしています。やぐらに上って遠方を見渡しているのです。

内卦は坤の卦、外卦は巽の卦です。地上を風が吹きすさぶ形です。とてつもなく広い地上を、強い風がどこまでも遠く吹いて行くのです。風は「伝達」「情報」の意です。視点はあくまでも遠方に向いているのです。

観は周観の他にも、仰観、すなわち上が下を仰ぎ観る、あるいは下が上を仰ぎ観るという意味もあります。九五と六二が、それぞれ正位にして応じています。九五の王は下の民を仰ぎ観て、六二を始めとする民は九五の王を仰ぎ観るのです。そこに上下の対立はないのです。巽の卦は巽順にしてへり下っており、坤の卦もまた柔弱にしてへり下っているのです。

卦辞にある「盥して薦めず」の盥とは、祭祀の始めに手を洗って清めることです。清めた後に、御神酒を地面に注いで神を降ろします。薦とは肉や食べ物などを供えることです。つまり盥して薦めずとは、今まさに手を清めて神を降ろそうとしている最も緊張度の高い瞬間であって、この後から供え物をして祭祀は賑やかになるのですが、まだその段階には至らない厳粛な時である、ということです。

ここで何を言わんとしているかというと、やはり十二消長卦の油断ならぬ状況を完全に無視するわけにはいかないようです。一瞬の油断もならぬ時であるのかもしれません。高所から四方八方を観察するが如き大局観をもって時勢を観、そうして身を清めて神を降ろすが如き緊張感をもって、誠意を尽くして事に当たるのです。そうすれば一触即発の状態にあった民の心も緩み始めて、九五の王の誠意を感受し、そのご威光を仰ぎ観て心服するのです。顒若とは、仰ぎ観るという意味です。

4.彖伝

彖に曰く、大観、上にあり、順にして巽、中正にして以て天下を観る。観は盥ひて薦めず、孚有り顒若たりとは、下観て化するなり。天の神道を観るに、四時(しいじ)忒(たが)はず。聖人、神道を以て教えを設けて、天下服す。

九五と上九の陽爻二本が、高所において下を見下ろす形です。偉大なる九五は下にある民を仰ぎ観、下にある民は偉大なる九五を仰ぎ観るのです。

上下の巽と坤の徳はどちらもへり下るものであり、驕り高ぶることはありません。上は九五が正位にして中徳を得ており、下は六二が正位にして中徳を得ているのです。

卦辞にある通り、手を清めて神降ろす厳粛なる瞬間です。祭祀はまだ始まったばかり、祭主は未だ一言も発していないのです。つまり、態度や雰囲気で示しているのです。具体的な言葉を用いて訓示せずとも、法令を定めて発布せずとも、そのような言葉や文字を超越して伝えるべきことを伝えるのです。

天を見上げるに、天は一言も発しません。言葉をもって伝えることもなく、規則や法令をもって定めることもありません。ただひたすら、坦々と四時の運行が秩序正しく行われていくのです。この働きは一寸も違うことはないのです。なぜ人間ばかりが、口やかましく言葉や文字を使って無理やりに物や他人を操作しようとするのでしょうか。

ここで言う「神道」とは、天の神妙不可思議なる働きのことです。聖人と呼ばれる高みにある人は、このような天の働き、自然の働きを良きお手本として、その働きに従って行いをなすものであり、そうであるからこそ万民はこれに心から服するのです。

5.象伝

象に曰く、風、地の上を行くは観なり。先王以て方(ほう)を省(かえり)み民を観て教えを設く。

風が地上をどこまでも遠く吹きすさぶ形が、風地観です。

君子はこの形をみて、四方八方の諸国を巡幸し、それぞれの地方特有の風俗をよく観察して廻り、それぞれの地方に適した政治を施して民を教化するのです。

6.十二消長卦

この卦を十二消長卦としてみれば、天地否の塞がりが一層悪化して、陰の勢力が更に浸食している状況となります。巽の卦は「利益」「貪り」の象でもあり、陰弱なる小人たちが貪欲にして利益を貪り、聖人たちが追い詰められる一方にあります。

この状況が更に悪化すると山地剥、そして陰一色に染まる坤為地となります。ここまでに至ることが最早明白なのであれば、いっそのこと抵抗するのをやめて自然の成り行きに委ねる、というのも一つの選択肢です。と言いますか、むしろその選択しか有り得ない、と言い切った方がいいかもしれません。

陰に浸食されることを、なぜ拒むのでしょうか。善悪の価値判断でしょうか。一体、善悪とは何でしょうか。何をもって善とし、何をもって悪とするのでしょうか。果たしてそれは絶対的な価値判断なのでしょうか。

風地観の「観」は大局的に観ることを推奨する卦なのですが、果たして本当に、大局的に観たうえでの価値判断なのでしょうか。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。