1.乾為天(けんいてん)~昇り窮まり堕ちる龍②

六十四卦の一番目、乾為天の爻辞です。
卦辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n74ced87cf070

1乾為天

主爻

主爻は九五です。龍としての修養が十分に出来上がり、天に飛び上がるべき色々な条件が備わって、雲に乗り、高く天上に飛び上がっているのです。

初九

潜龍、用ふる勿れ。
象に曰く、潜龍用ふる勿れとは、陽、下に在ればなり。

(地の底に)潜み隠れる龍。これを用いてはならない。
象伝に曰く、「潜龍、用ふる勿れ」とは、陽爻が最下部にあるからである。

龍は千年もの長き間に渡って地の底に潜み、そこで英気を養って地上に現われて、天に昇って雲を呼び雨を降らします。初九は、卦の最下部すなわち地の底にあって、英気を養っている真っ最中であり、今はまだこれを挙げ用いるべき時ではありません。無理に用いれば、必ずや後悔することになりましょう。ここは焦らず、時機の至るのを待つべきです。

九二

見龍田に在り、大人を見るに利し。
象に曰く、見龍田に在りとは、徳の施し普(あまね)きなり。

目に見えたる龍が地上に現われ出でる。(人々はこの)聖人君子(たるべき龍)にお目にかかるがよろしい。
象伝に曰く、「見龍田に在り」とは、(龍の)徳の施しが(天下四方に)遍く行き渡ることである。

千年の修養を終えて、遂に地上に姿を現わしたる龍です。二爻と五爻は、それぞれ内卦と外卦の真ん中の位置にあって、引っ込み過ぎず、かつ行き過ぎず、程よい中庸の徳を発揮する中正の位置です。九二の龍は、世に現れたばかりで、未だ相応の地位を得てはおりませんが、中正なる徳を持つ龍であり、天下の万民はこの龍を仰ぎ観て敬服し、その指導を受けるのがよろしいのです。大人とは九五を指すようにも思えますが、文言伝を読めば九二自身を指すものであることが分かります。

九三

君子終日乾乾(けんけん)、夕べに惕若(てきじゃく)たり。厲うけれども咎无し。
象に曰く、終日乾乾とは、道に反復するなり。

君子は(朝から晩まで)終日、懸命に(己の成すべき仕事を務めあげて)、夕べになれば(その日一日の有りようは如何なるものであったかを反省して)深く懼れ憂える。(人生の過渡期にあって)何かと危い状況なれども、(そのようにして努力と反省をし続ければ)過ちには至らぬであろう。
象伝に曰く、「終日乾乾」とは、(努力し反省する)道を日々反復することである。

三爻は、内卦から外卦へと飛び移る過渡期であり、かつ往々にして行き過ぎ失敗することの多い時期でもあります。九三は龍ではなく君子と表現されておりますが、言わんとすることは察することができるものでありますので、わざわざ突っ込むべきところではありません。敢えてフォローすれば、六爻は天・人・地であり、初爻と二爻は地、三爻と四爻は人、五爻と上爻は天の位置に当たります。ですから三爻と四爻は人としてのはたらきを注視して、龍の文字を隠しているのです。さて三爻は、過渡期にあって常に危ぶみ恐れて失敗せぬよう日々の精進を積み重ねます。決して疲れることのないことが乾の徳です。かような態度であれば、咎はなく、無事に過渡期を乗り越えて更にもう一回り成長することができるのです。

九四

或は躍り、淵に在り、咎无し。
象に曰く、或いは躍り淵に在りとは、進みて咎无きなり。

あるいは跳躍して(天に飛び上がろうか)、あるいは(己の未熟さゆえに)地の底に戻って(修業し直すべきか、己の進退すべきところを慎重にわきまえているので)過ちには至らぬであろう。
象伝に曰く、「或は躍り、淵に在り」とは、たとえ進んでいったとしても過ちには至らぬ(のであるが、己の力量を過信し過ぎないので)過ちには至らぬのである。

四爻は、天子の五爻のすぐ真下にあり、人間社会のヒエラルキーに喩えれば皇太子に相当する地位です。既に天子としての力量は十分に有しておりますが、しかしそこで野心を抱いてしまうと五爻を脅かすことになります。三爻とはまた違った意味で、危い位置です。過渡期を乗り越えて十分な能力を備えたるも、常に我が身と心を慎むべきなのです。天に飛び上がる力量はあれども、時機は至らぬのです。それまでの間、修行し直すべき未熟なる余地があれば修行し直すべきでしょうし、あるいは天子の命を受けて、天子に代わって用を成す機会も稀に有り得るでしょう。いずれにせよ度を過ぎた真似をしてはならぬ時です。

九五

飛龍、天に在り。大人を見るに利し。
象に曰く、飛龍天に在りとは、大人造(おこ)るなり。

空を飛ぶ龍が、高く天にある。(人々はこの)聖人君子(たるべき龍)にお目にかかるがよろしい。
象伝に曰く、「飛龍、天に在り」とは、聖人君子が(まさしく眼前に)現れたることである。

高く天に飛び上がり、雲を呼んで恵みの雨を降らせる龍です。大人を見るに利し、の文句は九二と同じですが、これは私たち自身を指すのではなく、私たちが大人を仰ぎ見るのです。この爻を得たとして、自分自身が大人であると自惚れては決してなりません。先の二爻は、本来は陰爻が入るべき陰位でありますが、この五爻は陽爻が陽位にあります。剛健中正なる陽爻が、その徳を十分に発揮し得る位置です。絶頂の時です。このまま人生が続けば最高なのですが、残念ながら陽剛なるものは窮まりて、やがて堕ちていく運命にあります。それが次の上九です。

上九

亢龍、悔有り。
象に曰く、亢龍悔有りとは、盈つることは久しかる可からざるなり。

昇り過ぎたる龍、悔いを残して(堕ちていく)。
象伝に曰く、「亢竜、悔有り」とは、勢い盛んなることが永遠に続くことは出来ないということである。

高く昇り過ぎたる龍です。退くことを知らず、進むことばかりを考えて進み過ぎ、そして己の力量を超えて窮まり、その極点から降り堕ちて悔やむ龍です。陽剛中正なる九五の徳は、いつまでも久しく発揮し得るものではなく、必ずどこかで慢心を生じ、そこから臣下万民の心は離れていきます。これは春夏秋冬の四時が常に循環し続けるのと同じく、世の常であります。良い悪いの人倫でジャッジする以前に、まず世の中の法則はこのようなものであることを知るべきです。そして話はここで終わりではなく、陰徳を学び極めるべき坤為地の爻辞へと続きます。

上九(繋辞上伝)

繋辞上伝の第八章より抜粋します。

亢龍、悔有り。子曰く、貴けれども位无く、高けれども民无く、賢人、下位に在れども輔(たす)くる无し。是を以て動きて悔有るなり。

乾為天の上九の爻辞「亢龍、悔有り。」を指して、孔子曰く、貴い位であっても(その徳の)高さが伴わず、高い位であっても(これに心服する)人民はない(驕り高ぶる天子に臣下万民は決して服従しない)。(高い能力を有する)賢人君子は野に下って卑いところにあるも、(高ぶり奢る天子を)補佐しようとするものはもはや誰もいない。このような状況をもって、悔有りと言うのである。

用九

群龍を見るに首(かしら)无し。吉。
象に曰く、用九天徳は、首たる可からざるなり。

群れたる龍を見るに、(その群れを統率したる)首領がおらず(皆かしこまっている)。(かような状況であるときは)吉。
象伝に曰く、用九の天の徳は、(誰もが我先にと)先頭を争わないことである。

用九とは、六十四卦、三百八十四爻の全てにおいて、陽の徳をうまく用いるべき方法を説くものです。すなわち陽剛強壮に過ぎることなく、柔和なる徳を加味すべきということです。乾為天の道を学ぶだけでは、まだ足りないということです。乾為天の飛龍をもって高く昇り尽くし、そして堕ちていく経験を踏まえた上で、改めて坤為地の道を履み、陰陽の両徳を兼ね備えたるものが真の賢人君子たるべきです。

まとめ

六爻全体の主爻は九五ですが、しかし読む側が最も学ぶべき部分は九五ではなく、上六です。昇り尽くして、そして堕ちることを世のリーダーは体験すべきであり、そして堕ちた後には坤為地の道が続くことも併せて知るべきです。

乾為天と坤為地、これら両極端の道を体験しなければ、中道を知ることは出来ません。頭で知るだけでは駄目です。体験して初めて知るのです。用九の群龍首无しの境地は、天から地に堕ちたる体験をし、かつ坤為地の六二と六五の境地を体験し得たものだけが達し得る境地なのです。

堕ちること自体は、悪ではありません。そして堕ちる原因たる驕り高ぶりもまた、悪ではありません。善悪とは、人間が勝手に創り出したる判断基準であって、天理の法則に善悪も何もありません。ただ法則に従って、なるようになるのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。