21.火雷噬嗑(からいぜいごう)~嚙み砕く②

六十四卦の二十一番目、火雷噬嗑の爻辞です。
卦辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n30c7108f79ea

21火雷噬嗑

主爻

成卦の主爻は九四、主卦の主爻は六五です。いずれも刑を処するのですが、九四の判断はやや的を外し、六五において的を射るのです。

初九

校(こう)を履(ふ)みて趾(あし)を滅す。咎无し。
象に曰く、校を履いて趾を滅すとは、行かざるなり。

足枷(あしかせ)をはめて足元が見えず自由に歩けない。咎はない。

初九は極めて軽い刑を犯した者であり、軽い刑罰を与えて二度と同じ過ちを繰り返さないように戒めているのです。つまり悪事がこれ以上大きくならないように止めるのであり、咎はないのです。

初九(繋辞下伝)

繋辞下伝の第五章より抜粋します。

子曰く、小人は不仁を恥ぢす、不義を畏れず、利を見ざれば勧(すす)まず、威(おど)さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡(いまし)むるは、此れ小人の福なり。易に曰く、校(こう)を履みて趾(あし)を滅す、咎无しと。此れの謂(いい)なり。

孔子曰く、小人は不仁なる行いをすることを恥ずかしいと思わず、不義なる行いによって悪因悪果を招くことを恐れず、己の利益になることでなければ動こうとせず、刑罰をもって脅されなければ懲りることはない。よって小なる刑罰を加えてこれを懲らしめて、大いに戒めて再び悪いことを行わないようにするのは、結果として小人の禍福となろう。噬嗑の卦の初九に曰く「校を履みて趾を滅す、咎无し。」とは、これを言うのである。

六二

膚(ふ)を噬(か)みて鼻を滅す。咎无し。
象に曰く、膚を噬みて鼻を滅すとは、剛に乗ずればなり。

悪人を刑すること、柔らかい肉を鼻が見えなくなるほど奥まで噛むが如く容易い。咎はない。

六二は初九(剛に乗ずるの剛)を取調べる刑獄人です。中徳をもって罪人の心を包容し、罪人はそれに感動してありのままを白状するのです。それはまるで柔らかい肉を奥の方までかぶり付いて食らうほど容易いことです。

六三

臘肉(せきにく)を噬みて毒に遇ふ。小(すこ)しく吝。咎无し。
象に曰く、毒に遇ふとは、位当らざればなり。

堅い乾肉を噛んで毒に当たる。少しばかり恥ずべきであるが、咎はない。

六三は陰爻にして不正、才能足らずして行き過ぎるところがあるため、六二のように事を上手く運ぶことが出来ません。悪事を白状させようとして、罪人の反抗に会ってしまうのです。これは堅い肉を噛んで毒に当たるようなものです。しかし六三は決して悪いことをしているのではなく、恥ずべきではありますが、最終的に咎はないのです。

九四

乾胏(かんし)を噬み、金矢(きんし)を得(う)。艱貞(かんてい)に利し。吉。
象に曰く、艱貞に利し、吉とは、未だ光(おおい)ならざるなり。

極めて堅い乾肉を噛んで、その中にある金の矢じりを得る。艱難の渦中にあって威光大いならざれども、正しい道を堅く守り通せば利を得よう。吉。

陽爻にして陰位にあり、剛強かつ柔和な心を併せ持つ君子です。高貴なる身分の刑獄人であり、取り扱いの難しい罪人を担当することが多いのです。よって六三よりも更に堅い乾肉を食らうようなものですが、乾肉の中に金の矢じりを見つけるが如く、その罪人の深い事情まで探り通すことが出来るのです。しかし一方で、互卦の坎卦の真ん中にあり、決して楽々と進めるべき仕事ではなく、大いに苦労する立場でもあるのです。決して油断することなく大仕事をやり通すことによって、最後にようやく利を得られるのです。

六五

乾肉(かんにく)を噬み、黄金を得。貞にして厲(あやぶ)む。咎无し。
象に曰く、貞にして厲む、咎无しとは、当(とう)を得ればなり。

やや堅い乾肉を噛んで、その中にある黄金を得る。正しい道を守り通す一方で、警戒を怠らない。その判断は的を射ており、咎はない。

六五は一国を統率する天子の立場でありますが、よほど重大な事件においては、自ら罪人を裁判することがあります。しかし中正なる陰の才覚をもって九四よりも容易く事を運ぶので、その噛む肉は少々堅い程度であり、肉の中に黄金の塊を見つけるが如き功績を得るのです。黄金は黄色であり、外卦の真ん中であることを表します。かつ中徳をもって終始事に当たりますので、油断することなく常に危ぶみ恐れて、刑獄という不本意なる仕事でありますが、咎はないのです。

上九

校(こう)を何(にな)いて耳を滅す。凶。
象に曰く、校を何いて耳を滅すとは、聡くこと明かならざるなり。

首枷(くびかせ)をはめて耳が塞がれ、音を聞くことができない。凶。

初九は軽い罪人ですが、上九は極悪人です。今まで幾度も罪を犯し、全く反省することがありません。よって足枷よりも更に過酷なる首枷をはめられてしまい、もはや物を見ることも音を聞くことも出来ないのです。自業自得であり、凶なるものです。

上九(繋辞下伝)

繋辞下伝の第五章より抜粋します。

善、積まざれば、以て名を成すに足らず。悪、積まざれば、以て身を滅ぼすに足らず。小人は小善を以て益无しと為して為さざるなり。小悪をもって傷(そこな)ふ无しと為して去らざるなり。故に悪積もりて掩(おお)ふ可からず、罪大にして解く可からず。易に曰く、校(こう)を何(にな)うて耳を滅す、凶と。

善い行いというものは、積み重ねていかなければ名誉を得るには足らない。悪い行いも、積み重ねていかなければ身を滅ぼすに至らない。小人は、小さい善行を一つ行ったところで何の利益もないと思い、それを行わない。そして小さい悪事を一つ行ったところで何の害もないと思い、それを止めることをしない。それゆえに、悪事が段々と積もり重なって、それを覆い隠すことができなくなり、そのようにして罪が大きくなり、やがて悪の循環から逃れることができないようになるのである。噬嗑の卦の上九に曰く「校を何うて耳を滅す、凶」と。

まとめ

初九と上九は罪人であり、六二から九五までの四爻は罪人を裁く役人の立場です。いずれか片方のストーリーに寄せると単純になり過ぎるので、坤為地の爻辞のように二つのストーリーを重ね合わせているのです。

ですので、爻辞を読む際には、罪人の側と、これを処罰する側、両方の立場が実質的には重ね合わさっていることを理解した上で読むべきでしょう。

六四は、卦辞においては口に挟まった障害物そのものであり、嚙み砕かれるべき存在でありますが、爻辞においては逆に嚙み砕くべき側の君子であることにも留意すべきです。

そして初九と上九は、繋辞下伝の第五章において解説文が付せられております。悪人が、最初は軽い悪事を犯すことから始まって、それを徐々に積み重ねて、やがては大いなる悪事へと変貌していく過程が述べられております。悪事は小さな段階で積んでしまうのが最良なのです。

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