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シャーロックに関する事件

やっぱりシャーロック・ホームズが好きだ。
ロンドンの寒空、背の高い男女がコートの襟を立てて行き交いする。
金具や木の軋み音、硬い蹄の音を立てて馬車が通る。
ホームズの部屋の散らかり、本や壁にかかった写真、何種類も揃えられたタバコ、床に転がる灰、使い古されたパイプと革のソファ。
奇怪な死体、辻褄の合わない証言、正体不明謎の人物、暗号。
いつでも素材は一流だ。考えうる限りの名産物がここに揃う。

郵便はよく分からないものを送り、家主はよく分からない人を泊める。民族の傷が疼く。謎の組織がちらつく。
これが最高のスパイスとなり事件に味付けをする。

初めて手にしたのは中学の頃である。
集英社文庫から出ている『シャーロック・ホームズ傑作選』

わたしはもう一目見て彼の虜となった。

「きみだってたしかに見ているんだが、観察しない。ただ見るのと観察するのとじゃ、まるでちがう。たとえば、玄関からこの部屋にくる階段は、何度も見ているだろう」

わたしは教室の机で一人これを読み、かつてないほど胸をワクワクさせていた。

「何百回となく見たさ」
ワトソンが答える。

「じゃあ何段あるの?」
「何段? 知るものか」
「そうだろう。観察しないかな。そのくせ見るだけは見ている——

この「見るだけでなく、観察する」という言葉は、当時の僕に最重要のテーマとして胸の柱に刻み込まれた。
帰りに学校の階段の段数を数えたことは言うまでもない。

当時、同じように小説を読む友人が二人いて、その二人にわたしはまるで新大陸を発見したかのようにシャーロック・ホームズを教えた。
そのうちの一人は、読まなかった。
そのうちの一人は、ある日わたしが理科の実験の教室移動のため準備をしているとき、

「シャ〜ロック・ホ〜ムズのいいとろこ〜♪
 それはおもしろいところ〜♪ 」

と一人で歌っているのを聞いたので、読んだのだろう。

短編集二冊と長編一冊を読み終えたばかりのわたしだったが、そんな歌を歌ったことはない。
なんだかファンとしての本気度で負けた気がして、それからシャーロック以外の推理ものを読むようになってしまった。

しかし十年越しに今、改めて驚いたのだ。
シャーロック・ホームズは、他の何とも違う魅力をもっている。得体の知れない面白さと親しみ。シャーロックはシャーロック以外にありえない。

『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』を手に取った。
古本屋で見つけたとき名前のない糸がわたしを引き寄せ、購入させたのである。
久しぶりに読んでみる。
面白い。

彼らの前に現れる事件は、まずその現象に違和感がある。つじつまが合わなかったり、ありえないことが起こったり。だから適当に読み始めても興味を持たされ、読み進めさせられる。

そして道中、シャーロックの高飛車な態度、人を見下したようなジョークや行動が彼にカリスマ性を与え、周囲のキャラと読者を振り回す。

そして最後には意外なほどに話の規模は大きくなって幕を閉じる。

これぞシャーロックの楽しさだと、わたしはあの頃を思い出し、思う存分楽しむ。ホームズシリーズにおいて最初の謎は解くためのものでなく、その奥に潜む巨大な闇に辿り着くためのきっかけなのである。それが並の推理ものとは別の域にいたっている一つの要素に思う。

『最後の挨拶』には八つの短編が収録されており、今その前二つを読み終えたところだ。

一度短編集は閉じて『緋色の研究』を読んだ。
『最後の挨拶』ですっかりシャーロック熱を取り戻したわたしは、このシャーロックデビュー作、彼が世界に初めて登場したこの最初の作品を今まで読んでないことに不条理を感じ、読んでみることにしたのである。

読んではいなかったのだが、話の内容も、犯人が誰であるかもすでに知っていた。さまざまなドイル研究、推理小説史のようなものは読んだことがあり、そこで言及されることがままあるからである。それでも存分に楽しめた。謎の血と、貧困と、憎悪と、砂漠の渇きと、宗教と運命に歪められる個人の人生とが頭の中で混ざり合う。

『緋色の研究』ではまだそれほどホームズとワトソンの紐帯が固くないことを発見し、物語が進むにつれ二人の関係も微妙に変化しているというドイルの繊細な技術にも気づけた。

シャーロックから学んだ賢さ。
「観察すること」
そして「些細な情報を無下にしないこと」
どんな小さな情報でも大きな謎を解く重要な鍵となる。
だから彼は何事をも見逃さないし、ちょっとした人の所作、落ちているものまで記憶に留める。

きっとわたしが高校受験を乗り越えられたのは、彼のおかげである。
中学時代に起きた彼との出会いという事件は、わたしに「頭を使う」ということの基礎を教えた。自分で物事を考える。色々な要素を、思考によって結びつける。
これらは学問においても同じように一番肝心の柱である。柱であるが、案外多くの人がこれを蔑ろにしているように思う。情報を覚える、では足りない。文章を読む、では足りない。その一つ先、観察と、あらゆる要素は繋がっているという思考法が肝心なのである。

懐旧の情が生ったわたしは、本棚の古い層に潜り込んで、当時読んでいたシャーロック・ホームズを引っ張り出してきた。

『シャーロック・ホームズ傑作選』 集英社文庫
『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』 新潮文庫
『四つの署名』 新潮文庫

そうそう、この三冊。
ん…… 『最後の挨拶』もうすでに一回読んでいたのか。

目次を見てみると、最近買って今読んでいるものと寸分違わない。
これを初見のようにわくわく読んでいた。

何が観察だ、記憶だ、結びつけるだ。
何も覚えてないじゃないか。

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