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みどりちゃん t2

 久しぶりに街を歩く。

 ここへ帰ってきてから「久しぶり」「久しぶり」とばかり云っているが、本当に久しぶりなのだから許してもらいたい。散歩についてであるが、わたしは、とりあえず近場をぐるりと周り、変わらない路と家並みや国道沿いをみると、それには満足して電車に乗った。今度はどこを行こう。とりあえず、数駅いってみることにします。と何らの計算もなく乗った電車の吊り革にぶらさがって、移り変わる景色を眺めていながら、わたしはほんの思いつきで「では本屋さんでもみに行こう」と日程した。なのでわたしは次の駅で降ります。

 ここは田舎なもんで、電車を降りるとき駅で、ドアの開閉ボタンを押さなくてはならないのを思い出した。わたしは電車が駅にはいると席をたって、ボタンのそばに移動した。変な心配性が発露したわたしはずいぶんさきに席をたってしまい、そのためによそ者風の背中を恥ずかしくさらすことになった。ずいぶんな時間を感じて、ようやく駅についた。そしてポチッ。ガシュー。

 ヒョイ。ットトト。

 テクテクテク。ピ。——タンタンットン。

 駅を出るとわたしの目にポスターが出た。水族館で何かの催しがあるらしい宣伝をしている。そうだ、この近くには水族館ができたのだ。できたといってももう何年もまえのことで、新しくはないけれど、完成したというニュースを過去に見たことをおぼえている。

 けれど本日は日程に決めてあるように、本屋さん。

 わたしはそれに少しだけお辞儀をして通り過ぎる。「すみません、きょうは行けません」半分晴れて、半分曇った、妙に暗い虎のような天気である。わたしは踏切を待ちながら、ひょっとして雨が降らないか、心恐した。

 本屋さんはショッピングモールの中に大きなのがあるが、わたしはそこへ行くことにした。昔たまに兄に頼まれてここまで買い物にきた。その頃は海外小説に凝っていた兄、覚えづらい作家の名前をわたしの目の前で頭に刻み込むように何度も云い聞かせ、表紙の絵まで説明してわたしを出航させた。本の海に辿り着いたわたしは、もう消えかかっている宝の地図を何度も透かしてどうにか見ようとして、これかな、というやつを買っていた。だいたい二回に一回は成功した。たいしたものである。

 ここへくると、思い出す予定でもない思い出をこうやって思い出すので楽しい。と、わたしは棚の中を巡っていた。何か一冊、せっかくだから、買って帰ろう。わたしは適当に、みたことも聞いたこともない本を一冊、店の一番右の下の隅から引っ張り出して買った。

 そして、である。

 部屋に帰ると、そこには知らない男の人がいた。あまりに驚いたことは云うまでもない。わたしは指にかけていた本が入った袋を悲しい音をさせて落としてしまった。みたこともない男の人は、廊下に座っていていま扉をあけて帰ってきたばかりのわたしを一瞥する。

 わたしはそのまま立ちすくんでしまった。

「あおさんに、ここへ行けと云われたんだ。だからいるんだ。君のことは知っているし、一回だけみたことがある」

 静寂のすぐ隣から彼は云った。棒を読むような一連の声で云った。まるで紙の裏から声がするみたいだ。

 相変わらず「……うう」としか反応できないわたしに、彼は次の説明をつけてくれた。

「君のお母さんには、了承は得たんだ。さっきね。それから彼女は仕事だと云って出て行ってしまっていま俺一人だが、勝手に入ったわけじゃないからそれを知っててくれ。それと、君のお母さんにもこれは説明したけれど、俺はあおさんの部屋を借りるんで、そこから基本的には出ない。いまは、一人と思ってここにいるけれどね、ああ」

 暗い隠滅していきそうな話し声であった。わたしは「はい」と了承を伝えると、彼の脚を越えて廊下を進むと、小鳥のように自分のへやへ逃げ込んだ。わたしの通った跡にはきっと二枚三枚の羽毛がひらひら残ったことであろう。その物静かな画面と対照的に、わたしはもう口をあけて息もたえだえというと過言になるが、まあまあ緊張していた。小鳥だと優雅なものを比喩にもちだしたが、実際は壊れかけの小鳥のロボ玩具のようにぎこちなかったろう。自室に閉じると、買ったばかりの本をひらく。一秒たりとも集中できず、そこに何の文字があるのかさえ判然としないくらいであった。

 そして数時間して母は帰ってきた。

「まあ、数日だけって云ってるからね」と云い、さらには「こっちへ来て寛いだらいいのに」という心配までする。呑気な人である。わたしは母にたのまれ晩ご飯を彼に運んだり、それを受け取りに行ったりした。

「最初はみどりの恋人かと思った」

「ええ」と母の言葉にわたしは肩を振る。

「あおの知り合いみたいね。恋人かしらね」

「お兄ちゃんの?」

「そう」

 違うでしょう。母は自分でツッコミを入れて(手だけはわたしのおなかを叩いて)笑った。


 それから夜になってのことである。わたしは布団にのって、自分のノートを眺めていた。それから、それにも見切りをつけ、へやの電気を消すとそのままもぐった。それからである。時間は何時かわからないが、扉がぎちっと少しあいた。わたしがひらけたのではない。

 ドアの影からは彼がみえた。

「寂しくないかい」

 と彼は云った。わたしはからだを固めて何の反応もしなかったが、すると彼はそのままドアをしめた。ふたたび一人きりの静けさが部屋を襲う。

 一体何だったのだろうか。

 次の朝起きると、彼はいなかった。出かけたのだと母は教えてくれた。そしてそんな彼女自身も、そのうち仕事に出かけた。

 一人になったわたしは家中ひととおり掃除機をかけ、それからお茶を飲んだ。

 さて、何をしましょうか。と机の前に座布団を敷き、そこにちんと正座をしたとき、突然リリリと電話がなった。確かに、云われてみれば、いつだって電話は突然鳴る。けれど電話が苦手なわたしは、それが結構に弱点で、きっと心臓が痛くなるのだ。

 受話器を取ろうか、ずいぶん迷った。

 けれど結局、それを無視する間にかかる音と空気の重圧に負けて、わたしは受話器をとった。そこから届くのは、知らない男の人の声だった。

 最初の方、ぺらぺらとねちゃついた早口で説明を受け、何のことやら分からなかったが、

「ギンジの女か?」

 と聞かれたときに、初めて何関係の電話かだけは理解した。

「いいえ、あの……」

 しかし、こちらの声はあまり届かないみたいである。彼は喋りを続けた。

「——ギンジに聞いた場所に行くとよ、誰もいないんでよ。それで大家に聞いて、お前が兄妹二人で住んでたって聞いて、その兄っていうのを探したわけだ。わかるか、それでどうにか兄は見つけたがお前はいない。兄に聞いたら、故郷へ帰ったっていうじゃねえか。場所は教えてもらった。教えてもらったし、こうやって家の電話も聞いたが、来ても場所が見つからなくってさ。俺は方向音痴なんだ。早く見つけないと俺は兄貴に怒られるわけだ。わかるだろ。兄貴っても、お前の兄じゃないぜ。俺の兄貴だ。血はつながっていないが、兄貴っていうやつだな。それで頼みがあるんだ。用件は何かっていうと、お前の話を聞きたいんだ。ギンジについて。いいか」

「はい。ギンジくんどうかしたんですか」

「まあ後で話そう。近くにショッピングモールがあるだろ。そこへ来てくれ。つまり待ち合わせだ。そこで話を聞く。それで、お、ちょっと待てよ。えっと……はい……はい……——おぉ、もしもし。聞いてるか」

「はい、聞いてます」

「明日の、午後十四時」

「はい」

 わたしは紙にメモをする。

「ショッピングモールの中に、天五っていう店があるんだ。そこだ」

「はい」

「来いよ」

「行きます」

 ふうっ、緊張した。相手が捲し立てるように一本のテープみたいに喋ってくれたから少しは楽だったけれど、けれど、一体何であろうか。ギンジくんの知り合いみたいだった。


にゃー