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英才教育は非効率 (12/14)


 こんにちは、のり子です。
 みんな大好きのり子。
 久しぶりの日記。

 みんなが憧れるものといえば。
 そう、のり子。
 のり子とはそう、天才。
 故に、みんなが憧れるものとは(一般的に言うと)天才と結論できるだろう。
 天賦の才。才能というやつである。

 何が言いたいかもいうと、今回〈天才〉〈才能〉というやつをテーマにしました、ということ。
 ではいきましょう。

のり子の疑問、その始まり

 才能というというやつは、果たして質的に凡人とは違うものなのでしょうか。
 それとも量的に異なるものなのでしょうか。

 のり子には以前から不思議に思っていることがあります。

「なぜ本を読んで理解できるようになっているのか」

 私たちは理解できるものは理解できるけど、理解できないものは理解できないはずです。
 あたりまえのことですが、確認しておきましょう。
 これはつまり、私たちには理解できる範囲があるということです。

 理解できる範囲外のこと、つまり理解できない領域のものは理解できないはず。

 そうだとした上でもっと不思議なことがあります。

「理解できなかったことが、理解できるようになってる」

 です。理解できない領域のことは理解できないはずなのに、私たちはどのようにして理解できないことを理解したのでしょうか。 

 そしてまさにその通りの出来事が、私たちがたとえば小説などを読んだ時におこります。
 私たちには、その小説から読み解ける部分そうでない部分があります。また読める部分とそうでない部分とも言えるでしょう。
 現にそういう体験をしたことがのり子にはあります。

 トルストイの『アンナ・カレーニナ』です。

 19か20くらいでこの小説を読んだ時、前半の単純な恋愛ものとして読める部分は楽しく読めたのですが、後半の夫婦生活上での困難や家族を持つことの問題になるに至って全く面白くないと感じたのです。当時にして、これを面白くないと思うのは単なる私の経験不足であると分かるほど、急に読めなくなったのです。

 つまり何が言いたいかと言いますと、理解できない領域が、経験による理解できる範囲の拡大によって侵食されたのです。

 理解できる範囲は時間と共に増える。
 経験によって増える。

 この辺はある種の常識——意識されてない常識、でしょう。
 しかし、小説ならそれでいいのですが、数学を学ぶ時、哲学などで形而上学を取り扱う時、こういう経験が一切役に立ちそうにない時、我々はどうやって学ぶのでしょうか。

哲学ノート・・・キルケゴールの場合

 この問題はヘーゲルや(私の大好きな心の友人)キルケゴールも取り扱ってまして。

 キルケゴールは「真理」との関係においてこの問題を提示しました。
『哲学的断片』という本です、たしか。
(次のヘーゲルと合わせて、私には図書館で借りてマッハで途中まで書き写したノートしか私の手元にないので、その辺の情報の偏りと薄さは勘弁してください)

 彼は「第一章 思想計画」において、

心理は学びとれるものであるか

『哲学的断片』出版社不明(多分世界の名著第40キルケゴール) P58

 と問いを立てます。
 それがさっきの私の疑問とほぼ同じ、

 自分がすでに知っている真理を探し求めるわけはないし、かといって、自分の知らない真理を探し求めることも同じくありえない。

 と言います。
「すでに知っている真理」なんて探す必要はないし、「知らない真理」については、探そうと思うことすら私たちにはできない。ということです。

 では、人はどうして学ぶことができるのか。当時ソクラテスにはまっていたキルケゴールは、ソクラテスの言葉を引いて、それを彼は真理が内在するものであると捉えることで解決します。

「学びとる」ことや「さがし求める」ことは、すべて「想起する」というこの一事に尽きる。

 知る、のではなく、気づく。という説明が微妙に近いように思います。

 真理は人からもたらされるのではなく、自分のうちにあったのである!  

 これはキルケゴールの言葉か、私の書いたメモかわかりません。
 しかし次のは確実にキルケゴールの言った言葉。

 私が現にそのもとに身を寄せている真理とは、私自身のうちに以前からあったものが私自身によって掘り起こされたにすぎず、ソクラテスといえどもそれを私に与えることはできなかった。

P61 下 L10〜

 ご丁寧にページと段落まで指定してメモしている。。

 つまり「小説の伝えたいこと」も「数式」もその真実は最初から私のうちにあると。
 言いたいことは分かります。どんな哲学書も、小説も大体「命を大切に」とか「自分の意志で決定しよう」とかに落ち着きますし、釈迦の言っていることもキリストの言っていることも、本当は子どもですら(子どもでこそ)気づいているのような初歩的な倫理だったりします。
 あるいは、数式にしたって物理学の法則にしたって、実存主義的な観念も構造主義が明かしたことも、現実にあることをそのまま言っただけなので、私たちの内側にないことが外側からもたらされたものでないことは分かります。
 分かりますが、キルケちゃんよ。
 それはちょっと神学的すぎないかい。

 次行きましょう。
 この時点で、想定していた二倍以上の分量を書いてしまっています。

哲学ノート・・・ヘーゲルの場合

 ヘーゲルは自己の精神の発展上でこの問題を抱えました。ヘーゲルは精神の発展を「自然的意識(誰もが持っている普通の意識のこと)」が「経験」によって「変貌」し「自分自身を自覚」することによって行われると考えました。
 彼にとってはまた「自分自身を自覚」することがまさに「新たな事故を創造し実現する」ことに他ならなかったので、この「自分自身を自覚」することができれば人はその度に成長すると考えました。
 しかし、それは簡単にはいきません。
 なぜなら、私たちは、自分が到達している意識のレベル(=精神の理解力)に応じてしか世界を理解することも、自分を捉えることもできないから、です。

 これをヘーゲルは時間の流れを組み込むことで解決します。

「自分自身を自覚」ということは「私が私を考える」という行為、——デカルトの「コギト」とかぶります。これはTwitterでパクリ疑惑を疑われても仕方がない問題ですが、ヘーゲルはそれを否定します。

 デカルトは「私は考える」→だから→「私は存在するといえる」

 としましたが、ヘーゲルは「そうはならないだろ」と引用リツイートします。

たしかに、「考える私」を認識しないと「私」は確認できない。
が、そもそも、「私」が存在していなければ「考える」ことすらできないではないか。

 とこういうわけです。
「存在」が先か「思考」が先かの卵鶏問題。
 これに時間という出汁を加えて親子丼にしてしまうヘーゲルの思想とは以下のものです。

「私が考える」ことと「私が存在すること」は同じだ。。
 もっと言うと「考える」=「私は私が考えていると言うことを知っている」この二つは同義であり、また、同時だ。
 そして、時間と共に一秒ごと「考える私」によって「私」は常に新たな「私」として生み出し続けているのだ。

 そしてこの営為に終わりはありません。
 つねに生成される「自己」にとってデカルトが想定していたような「確固不動のもの」はなく、自分の未熟さに絶えず気づき続け、その度に新たな自分になる。
 これこそ彼が「懐疑の道」「絶望の道」とよぶ精神の成長の旅なのです。

休憩

 さて、何の話だったでしょうか。

 そうそう、ラジオと銘打ってますので、いつも曲を一曲載せているのでした。
 えーっと。じゃあ、最近ハマってるチェンソーマンから、最近流行ってるこれで。

 かわいい。
 こう見えて男なんですけど、のり子、昔から可愛い女子が苦手なんです。一緒にいるだけで黙りこくって、冷たい対応をしてしまう。最近気づいたのですが、これは嫉妬ですね。自分より可愛い存在に対する。
 冷静沈着を恣にしている性格ですが、自分の中にこんなにどす黒く渦巻く巨大な感情があったことはついぞ知りませんでした。美人嫌い。あのちゃんはまあまあ好きです。

本題

 さて、手近なノートから適当な哲学者二人を選んで「知る」ことについて書きました。
 ちゃぶ台をひっくり返すようですが、のり子は「真理は内在」とか「時間」とか「自己を生成」とか面倒臭いことは考えません。
 こう考えます。

 どんな難解なことでも時間さえかければ理解できる。

 これはのり子の手書きのノートからの引用です。

 まあ、この場合のり子が問題としていることと、キルケちゃん、ヘーゲちゃんが問題としていることに根本的なズレがありますから、比べるのもおかしな話ですが。

 皆さんも実感としてないですか?
 時間さえかければ、どんなことでも理解できる。
 どんなことでも習得できる。

 一万時間の法則とかネット上で言われたり、GRIT〈やり抜く力〉とかいう。
 これらもおんなじようなことを考えているのでしょう。

 おんなじようで少し違う。
 一万時間とかGRITは基本的に天才はいるのではなく、出来上がるものだと捉えているでしょう。
 確かに出来上がるものでしょう。
 ですが、そうではなく、天才は「出来上がった結果いるもの」なのです。

 どんな難解なことでも時間さえかければ理解できる。

 このことが何を意味するか。
 つまり、

 才能とは速度のことである。

 と言えるのではないでしょうか。

 小説の話に戻りますと、難解な物語を一回読んだだけで理解する人と、十回読んでやっと理解する人とがいます。
 一回読んで理解できる人は、隣の人が十回読んでいる間に、十冊本を読めるわけですから、その分見識も広がります。

 飲み込む速度、処理速度、上達速度こそが才能の根源だとするのですが、これらはなにによって差が生まれるのでしょうか。
 分かりません。
 けれど、のり子に非常に重要な思い出があります。
 それは中学生の時塾の先生が言った言葉で、

「これから立体図形にはいります。みなさん、小さい頃積み木で遊んだりしましたか。立体の問題は積み木を触っていたかどうかで、解ける人解けない人が完全に別れますから、積み木で遊んでなかった人は諦めてください」

 塾の先生はみんな面白い人なので、これも一種の掴みネタと呼べるジョークでしょうが、のり子は小さい頃よく積み木で遊んでいて、立体に苦を感じたことはありません。対照的にのり子の現在の恋人は積み木に触ったことがないので、展開図を折ってサイコロにするという行為が頭の中でできない。あるいはいかなる図形も、その展開図を想像することができない。
 もちろんうんと時間をかけたり、訓練を積んでパターンを知っていけばいつかはできるようになるでしょうが、わざわざそんな苦労してまですることでもない。だから成績は振るわなかったわけです。

 図形的才能はなにと触れ合ってきたかで変わる。
 同じように、日本に生まれ育つとどうしても英語に苦手意識を持ちますが、同じ知能の程度でもアメリカに生まれ育ったら日本人からすると天才と思えるくらい英語が上手に話せるわけです。
 これらは質的に見えますが、量も質もそれほど本質としては変わらないでしょう。過程を見ていけばどうしても量になりますから(さっきの一冊、五冊の対比のように)

 そうしますと、天才を作ろうと思うと、単に情報を詰め込めばいいというわけではなさそうです。人にはそれぞれ素質がありそうです。どういう分野で速度を早く出せるか。この前「100分で名著」で中井久夫を取り上げていましたが、統合失調症になりやすい性質の人を「S親和者」と定義づけて歴史の中で彼らがどういう立場にあったのかを模索したと紹介していました。
 「S親和者」現代において統合失調症は精神病として治す対象になっていますが、古代においてこの性質を持つ人は「誰も気づかない些細なしるしから、獲物や敵の行動を感じ取る」ことができたので活躍したのではないかと考察。
 こういうのも天才と呼んでいいでしょう。

 そしてこういう天才を生かすのは、最終自分になるので、どうしてもある程度自己認識してから自分の意思で行動を強めていくしか(特に現代においては)なさそうです。小さい頃に数学を教えて、ピアノを教えて、というのは無駄ではないでしょうが、近道でないどころか、凝り固まった世界観の押し付けと偏りはもしかするとその才能の発揮まで遠回りさせてしまうかもしれません。

 ちょっと適当に長く話し過ぎて、論旨がぐだぐだです。
 またやりなおせたらいいね。

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