Down the hole 【短編小説】
自由とは何か、武士とは何か、わからなくなってきた。
金はある。が食い物がない。
刀はある。が飲み水がない。
窪下穽之蔵は空を見上げた。そこには昨日と何一つ変わらない、青い空が丸く切り取られて見えた。
穽之蔵には楽しみがあった。狩猟である。
昨日のことだ。
趣味の狩猟に赴こうと朝早くに家を出て、山へ踏みいった。屋敷から近いが初めて入る山である。猟銃一丁ぶらさげて、腰に刀と水筒だけ、身軽な格好でやってきた。
そこに鹿を見つけた。彼は獲物を追い、距離、隠れ場所ともに絶好の位置をさぐりながら移動する。その最中だった。おそらく村の猟師が鹿か熊でも捕らえるために作ったのであろう。立派な深い落とし穴に落ちてしまったのである。
よじのぼろうにも土壁は崩れ、飛び跳ねても指先すら届かない。
さらに運の悪いことに、水筒は上の木のそばに一旦置いたそのままここへきてしまったので、持ち物は使えない刀と、猟銃のみである。
まず猟銃の火薬と弾を抜いた。
そして座り込んだ。
とうとう上へ這い上がろうとする気力も折れて、体を休めると、恐ろしいほどの静寂に気がついた。上を見ると、狭い空に小さな雲が横切っている。
夕暮れになって、穴の中は夜のように暗くなった。ついに武士の命である刀も腰から外してて傍に置く。より座りやすいようにすることに決めた。
そして何も起きないまま、何の足掻きもうまくいかないまま、丸一日が経ったのである。
家来は何をしているだろうか。家主が消えて不安がっているだろうか。それとも気楽に過ごしているのだろうか。
声が届きさえすれば、縄を持って来させるか、下へ降りて来させて、押し上げさせるかできるのに。なぜ連れて来なかったのだろう。邪魔だから連れて来なかったのだ。足音が増えると獲物が逃げるから。
なぜ一日経っているのに、誰も探しに来ないのか。
命令されてないからか。今まで主人である穽之蔵の命令で朝から晩まで動いてきた彼らである。命令がないと何にもできないのだろうか。なぜ探しに来ない。異常に気付き、素早く探し始めれば、昨日の夜にでも見つけることができたはずだ。行く場所は伝えてあるのである。しかし今になっても、声も足音も気配も何もない。探していないのか。……探したくないのか?
穽之蔵にふと恐ろしい考えが浮かんだのはこの時だった。
探したくない。
なぜこのような文法が浮かんだのか分からない。
止めどない思考の奔流のうちの一つが意識に引っかかったのだ。落とし穴に落ちて一日過ごしでもしない限り、引っかからないような考えが。
彼らは、自分を探したいと思うだろうか。
思うはずだ。自分のおかげで彼らは飯を食うことができている。
自分のおかげで雨風の防げる立派な家に住んでいる。
一般百姓が住むような家とは違う。ボロ屋に住んでもいいような人間たちが、嵐にもびくともしない部屋を与えられ、年中そこで寝起きしている。
なら自分がいなくなれば困るはずだ。
困るのだろうか。困るはずであるが、
……本当に困るのだろうか? 分からない。
それ以上を考える前に、穽之蔵の頭には他の疑問がまだ流れ込んでくる。
自分はこのまま死ぬのだろうか。
彼らに殺されるのだろうか。もし出ることができたら、家に帰り家来にどんな罰を与えようか。帰ってきたことを、彼らは……喜ぶだろうか。泥棒に入られていないだろうか。
刀も外し、屋敷も家来も馬ももっていない現在の彼は、武士でも何でもなくただ一個の人間であった。
しかし彼自身がそのことに気づき始めるのはまだまだ先のことである。
ある日のことを思い出した。なんてことないある日の記憶を。
その日、彼はみかんが食べたくなった。家来のうちの一人にそれを伝えると、
「ご主人様、夏にみかんを見つけるのはさすがに不可能でございます」
と断られた。
彼は、それはそうかと納得して、家来に別の果物を探しに行かせた。その日の夕方であった。手に入れた酸っぱいぶどうを食べ終わると、さっきの家来を見つけたので、今度は書物を買ってくるよう頼んだ。しかし、彼はこう答えた。
「今から出ますと向こうに到着するのも夜中になりますゆえ」
「だからなんだ」
「明日にしてもよろしいでしょうか」
穽之蔵は最初理解できなかった。そんな風に自分の言いつけを断る者を初めて見たのである。その男というのは、本家が一月ほど前に登用した一団から一部分け与えられ、穽之蔵に従えるようになった家来のうちの一人であった。要するに新人である。
穽之蔵はつい刀に手を置いた。それを見て男は驚き飛び上がって、すぐさま本を買いに走った。それで穽之蔵は満足したのである。
昼はまだ暖かいものの夜は冷えた。星が青く輝いている。月は見えない。どこにあるのだろうか。
何もできない……。味わったことのない無力感。不能感。
風が葉を揺らすと神の音のように聞こえた。生命的なものに感じた。恐ろしさも感じた。 雲を見ていると、その流れる先にある町を思った。海を想像した。
一方、穴ぐらはどうだろうか。 閉塞的で、息が詰まる。空腹によって数時間意識なく眠ったような時間もあった。 しかし不思議なことに、ずっと空を見ていると、ここも空とあまり変わらないようにも感じてくるのだ。町にいるのと何にも変わらないようにも感じるのだ。家来に買ってこさせたぶどうを食べている時と、今の空腹と、大して変わらないように感じるのだ。
星を見ながら、ぶどうを思い出した。酸味の強いぶどうを。あのぶどうは、今より窮屈な気持ちで味わっていたのかもしれない。風が優しくふくたびに、記憶の日々が味気ないものとして思い出された。
空腹は無くなった。まるで胃と脳との連携がぱっつりと切られたかのように。
しかし依然として喉は乾く。もはや限界で、助けを求めようと腹に力を入れても、弱々しい息しか出なかった。
座り込んで、泥だらけの服も脱ぎ、定まらない視点で目の前の土を見ていると遠近感をなくす。視界の隅に煙みたいな、雪みたいなものがみえるようになってきた。
彼はもはや起き上がることすらしなかった。寝転んだまま、動かないでいた。そのまま叫ぶつもりで、息をすぅすぅと出した。
太陽が真上に上がり、直射日光が当たる。いよいよ彼の体力は削られ、目玉に差し込む日光も気にならなくなっている。その時だった。土が落ちてきて、目に入り、耳には鳥が暴れるような音が響いた。足首に針が刺さったような痛みがはしる。慌ただしく土を搔く音が聞こえる。
目の土を取れないままに、左目をそっと開ける。何やら、白いものが穴の中を、緩急つけた妙な動きからで移動しているの見える。目を瞬かせて、乾いた涙をひねり出す。ピントが合うようになってきた。見てみると、うさぎであった。うさぎが穴に落ちてきたのである。
急に心臓がぱくぱくと鳴り始めた。剣術の師匠と手合わせをする前のような緊張である。うさぎは健気に飛び跳ねては止まり、飛び跳ねては止まる。状況を理解できていないようである。
彼は粘っこい唾を舌ごと飲み込むように喉を鳴らして、血のはしった目でうさぎを眺めた。
飛び跳ねては止まり、飛び跳ねては止まる。
ここだ、と彼は足を振り上げ、うさぎのあたまへかかとを落とした。うさぎはくしゃりと音をたて、動かなくなった。
その後、彼は恐ろしくなり、呆然と立ちすくんだ。
まるで自分の頭を上から眺めているように、穴ぐらそのものと、自分と、うさぎとが、一緒に意識されたのである。
落とし穴に入って初めて正座をした。
彼は初めて刀を抜いた。
うさぎの皮を剥ぎ、そのまま血を飲むようにして肉を食らった。鼻に鉄の匂いが刺さる。口の中で獣くさく生ぬるい感触がのたくる。粘度の高い血の塊が喉を通った。
不味い。しかし天からの恵みである。彼は生き返った思いであった。それと同時にその一瞬まで自分が死んでいたことに気がついた。死とは、希望を失うことだった。可能性を失うことだったのだ。
うさぎは死ぬ運命だった、穴に落ちた瞬間に。
自分は生きている、穴に落ちたにも関わらず。
それはうさぎのお陰などではない。偶然である。狼が落ちてきていたら自分が死んでいただろう。次の瞬間には熊に見つかるかもしれない。
穴の中を飛び跳ねている時、うさぎに自由はなかった。うさぎに残された自由は、飛び回れる範囲は、穴の中という、切り取られたごく狭い空間に限られていた。限定された自由だった。対してその瞬間、自分にはもう少し多くの自由があった。うさぎと同じ空間に限定されながらも、うさぎを食うか食わないかの選択権があったのだ。これは力の上下ではない。偶然である。天が二択を自分に渡したのだ。
日の沈むころ、足音が聞こえた。
彼は復活した声でさけんだ。
しかし、穴を見つけ覗く者はなかった。誰も来なかった。
怒り。
怒りを覚えるだろうなと思った。
今までの自分なら、こういう風に思い通りにならないことがあると、その憤りを外世界へ当てることで発散したはずだ。しかしいま彼は、その心に何らの波も立てなかった。
「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに執着せず、無一物になった者は、苦悩に追われることがない。」
どこで読んだかもう思い出せない、釈迦の言葉を思い出した。
「或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる」
夜が訪れた。
彼はそれを、闇色の刻々と変わる空を見ながら知るのである。
今までの自分の生活は、不自由だった。自分は自分に縛られていた。それによって、全ての自由を他人に明け渡していたのである。
「この世では自己こそ自分の主人である。他人がどうして自分の主であろうか。」
家来に対して命令していたから、家来の自由を奪っていたのだと血に浮かぶうさぎをみたとき思ったが、実際は家来に命令することによって、自分は自由を家来に委ねていたのである。家来こそが自分の主人であると、自分は自分を売っていたのである。
それもそうだ。命令することは不自由である。それを叶えるも叶えないも、すべて向こうの手に委ねられているのだ。命令をする者は、待つしかない。命令される者には、選ぶ自由が渡されている。なぜなら人は、それぞれ個別だからである。彼には可能性がある。本を買いに行くのは遅くなるから行きたいくないと、自分の意志を発露できる瞬間が残されている。
自分はつまり、力に手錠をかけられ、全ての自由を只売りし続けてきたのである。
自分の可能性を捨て続けてきたのである。
穽之蔵は体がとたんに軽くなるのを感じた。また改めて座り直した。足を組んで、足の裏、足の甲、足首、ふくらはぎと、生まれて初めて見る気分でまじまじと眺めた。
いつのまにかそのまま眠って、そのまま起きた。
朝早く、彼は穴の中を整えた。刀の鞘で小さな穴を壁に彫り、その中にうさぎの毛皮を埋めた。刀はその前に横にして備えた。服を丁寧に着直して、再び座禅を組んだ。一つ一つの動作をゆっくりと行なった。目を閉じ、生まれてから昨日までのことを、順番に思い返した。目を開けると、記憶の景色と、今見える景色の色彩の差に驚く。こんなにも、世界は色鮮やかだったのである。
太陽が穴の底を照らした。彼の膝も腕も輝くように熱をもった。
猟銃を抱え、震える指で慎重に火薬を入れ、弾を充填する。
上手くいった。
深呼吸をする。
銃口をのどのくぼみに当てる。
鳥が天を横切ったのを、一瞬影が通ったことで知る。
引き金に指をかけた、そのときだった。
「大丈夫かえ」
しわがれた声が降りてきた。
上を見ると、陰に真っ黒になって顔は見えないが、痩せて禿げた男がこちらを覗き込んでいる。
「いまはしご持ってきやるな。昨日な、声が聞こえて不思議に思ったんだが、もう一度見にきて正解だったよ」
男の声は遠ざかった。
穽之蔵は手から猟銃を落とした。
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