見出し画像

みどりちゃん u3

 さあ、それから丸植さんは、廊下へ一度はけると、そこからテーブルを引っ張ってきた。安そうな、骨の細い、不安定なテーブルである。彼はそのテーブルの方を確認することもなく、片手で引っ張りながら歩いてきた。とても雑な引き方で、テーブルの足は砂とこすれて雑音をならした。

「こういうドラマチックな仕掛けを……計画していたわけじゃあないですけれど……やっぱり楽しいですね。えへへ。タキさん、あなた不思議がってますね。まさか、怖がってはいないでしょう」

「なんだそれは」

 テーブルには、コップが二つ並んでいた。丸植さんは、タキさんの質問を無視してキッチンへ行くと、水の入ったペットボトルをそこから持ってきた。そしてそれをコップに注いだ。

「あ」とわたしはふと気がついたことがあった。「左利きなんですね」

「そうだよ。ふふ。いかにも、左利きっぽいでしょ。それに、AB型なんだ。ふふ。AB型っぽいでしょ。……さて、水も入れ終え……て。山下さん、彼がギンジくんを殺したわけだが、実際会ってみてどうかな」

 わたしは何も答えることができなかった。そちらを見ることもできなかったし、たぶんむこうの人も、わたしをみてはいなかっただろう。丸植さんはまたふふふと笑った。

「許しをこうかい。そんなことはできないだろう。なら、せめてその気高き理論を説明してあげてください」

 丸植さんは、タキさんに云っているようであった。タキさんは、「俺たちは世の中を変えるんだ」と始めた。「そうそう、まあ、この場合、云い訳ですね」と、そこに丸植さんは油を注ぐように言葉を足して、促して、説明がスムーズに行くよう誘導した。タキさんはそれにのせられて口が止まらなくなったようである。その言葉を丸植さんは椅子に座って、とても真剣に聞いていた。こういうのを神妙というのであろう。

「世の中を、もっと進歩した世界にするのが理想だ。この国の人はみんな、自分の人生を無駄に過ごしている。だから、俺たちは、なにも目標を持たず、人に寄生して生きている人間に価値はないと知らしめる。全員が自分の価値を高めるための行動に汗を流す、そういう風潮にしたいんだ。努力のしない人間はゴミも同然だろ。更生できない人間に犠牲になってもらい、俺たちは主張する。命に価値を作り出せ。眠るな。成り上がるんだ」

 大体はこんな風であった。彼は自分の言葉に一言一言興奮して、その語気を次第に高めて話した。

「そうだね。その通りだよ。目標を持って、それに向かって生きることは、活力があっていい」と丸植さんはうなずいた。そして次はわたしの方を向き、わたしに話しかけた。「彼らは自分の欲求に素直だろ。必要以上に求めて、追って、その先にある虚無感は理解していないけれどね。自己実現を夢見ている、おもしろい連中さ。そういう種類の人間として、正しい姿勢で生きているね」

「おい、新入りのくせに偉そうな口を聞くなよ、丸植。リーダーがこれを知ったらどうなるか、お前はわかってない」

「リーダーね。でも、彼がこの計画を作ったわけじゃないでしょう」

「それは、……そうらしい」

「いったい誰なんですか。謎の人って。タキさんも知らないんでしょうか」

「ああ、知らない」

「ですよね。ねえ、山下さん、ちなみにその組織の、いまのところ目に見えるリーダーが君の兄さんだね。彼いまどこにいるか知ってるかい。僕、探してるんだけど。ああ、知らないんだ。ふーん。……驚きましたか、タキさん。それよりあなた、まだ気がついてないんですね。さっき聞いてませんでしたか。ねえ、山下さん、ふふ、彼はまだ理解していないようだ。……タキさん、彼女、あなたが殺した少年の恋人なんですって」

 丸植さんは、わたしの方を向いたり、タキさんの方を向いたりしてたっぷりまをとって話した。とても時間の流れない空間である。「山下さん」と名前を呼ばれるごとに、わたしは思わず彼の方をみてしまうのであった。そして、丸植さんが、云い終わったとき、タキさんは初めてそれを知ったのかそれ以来おし黙った。そして唇を噛んでいた。そんな彼に丸植さんは続けた。とても冷たい声だった。

「あなたはグループの中でも正気を保っていた方ですからね。そうやって自分を騙して行動していたんです。つらかったですか。そんなことはないですよね。反省しているんですか。無理ですよ、それは。あなたは最低な、人間ですらない存在です。理想があろうと、行動はしたわけですからね、気がつきましたか、行動というのは重たいのですよ。僕にはできない。ねえ、山下さん。ふふ。さて、僕が助けましょうか、タキさん。なぜ、彼を殺したんですか」

 云いながら彼はタキさんの縄を解いた。上半身だけ自由になったタキさんであったが、縛られていたときと、体制は変えなかった。彼はそのまま丸植さんに答えた。

「組織の計画だ。たまたまその仕事が俺に割り振られた」

「そんなことはどうでもいいんですよ。今更、自分も被害者だみたいな云い逃れ。なぜ殺したんですか。組織的な意見として聞きましょう」

 わたしは朦朧としてきた。聞こえてくる声が、何も頭に入ってこないのだ。床が歪んでいるように感じるし、体も曲がっているか、傾いているように感じて、気分が悪かった。

「あいつは、暴力団に加入したんだ」「そうでしたね。それで」「それで、だから、奴の未来を……彼の未来を想像しろと、そういうことで俺たちは。つまり、」「はい、つまり。ふふ」「つまり、俺には説明は難しいが、つまり、人生の価値をはかるんだ。そうだ、あいつも人殺しをした。人殺しをした人間なんだ。もう普通には生きていけない。俺もそうだが、俺もその犠牲の一人だ。世に問うんだ。それで、あいつは生きていても今度まともに働けないだろうし、そうしようともしないだろう」「なぜあの少年は人殺しをしたんでしょうか」「暴力団に入ったから、それが発端だ」「なぜ、彼は暴力団に入ったんでしょうか」「……それは知らない。それがあいつの見つけた生きる道なんじゃないか」「どういう生まれで、どういう育ちで、どういう考え方をすれば、そういう生きる道に進むんでしょうかね」「それは俺の問題じゃない」「いいえ、あなたの問題ですよ、タキさん。ええ、ふふ、頭がこんがらがるでしょう。そりゃそうです。十秒ですんだ殺人ですけれど、十秒で全ての説明がすむわけがない。彼の人生の問題ですから。そういうところですね、あなたたちの論の気に入らないところは。この世界は、人間ひとりとっても語りきれないほど複雑です。でしょ。へへへ。そんなあなたに、これをあげましょう。ひとつの選択の機会だね。どうです?」

 丸植さんは、コップにそれぞれ液体を入れた。片方が薬で、片方が毒であると云った。睡眠薬とヘボナの毒液らしい。そんなことを、丸植さんはとても楽しそうに説明した。

「これを飲んだら、すぐに死ねる」

「お前は、どんな人生でもいいのか」タキさんはつっかえながら云った。「負け組として、一生を人に蔑まれながら生きる人もいる。なんの努力もせずに、与えられた価値観だけを疑わずに、ちっぽけな平凡を幸せと呼んで生きている人間。そういう蔑むべき存在で、お前はそれでもいいのか」

「蔑んでるのはあなたでしょう。僕は蔑んでないですよ。僕は、あなたたち、成功しようと努力してる人間の方が馬鹿に見えますね。えへへ。お金が持てたら嬉しいですか?」

 部屋は静かになった。風が窓をたたいた。けれどその風は部屋の中にまで入ってくることはできなかったらしい。諦めたように静かになった。夜にうつり変わる時間なのか、月が雲に隠れてゆくのか、理由はわからないが、目に見えるように部屋は暗くなっていった。そしてそのとき、思いだしたように天井の電気灯がついた。わたしの目にどっと景色が流れ込んだのである。わたしの丸い膝も、迷彩模様の砂の床も、シミだらけのタキさんの白い靴も、へこんだテーブルの錆だらけの足も、スプレーで適当に落書きされた四角い壁も、落ちているパンのゴミも、部屋のすべてが脳裏に焼きついてしまったのだった。丸植さんがテーブルから離れて椅子に座ったきり、動きはなくなっていた。わたしはいまがどういう状況なのか、まったくもってわかっていないが、よくない景色と、よくない流れだけを感じていた。

 タキさんが、コップに手を伸ばした。

「だめです」部屋がふっと静まって、わたしは云った。「だめです。毒なんて飲んじゃ。……どっちも飲まないでください」

 そんなわたしに丸植さんが何かを云った。けれど、わたしにはそれはもう聞き取れなかった。

 わたしは最後に震えている自分の手を見た。とにかく心につっかえていたこと、タキさんに伝えるべきことだけそうやって云うとわたしはまた倒れてしまったのだった。

読書と執筆のカテにさせていただきます。 さすれば、noteで一番面白い記事を書きましょう。