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24 短歌集「女神たちはたらく」

__新月、曲がったノートを閉じる家庭教師の解読不能な提案。

 チョークを置く音は乾いていてまるで一つの木管楽器が間違って鳴ったみたいな嬉しさがある。アイはノートに答えを書いた。三角の女神に連立方程式を教わっているのである。
 三角の女神はアイの隣に腰を下ろし、机に肘をついて自分が書いたばかりの板書を眺め、「ふーん」とバネが緩んだびっくり箱みたいに首を揺らしながら後ろに大きくもたれた。下唇を突きだしてアイのノートを見る。
「よくできてるじゃん」
「数学だけは」とアイは鼻でシュッと息を吸って言った。「できるんだ」
 ワールドザワールドの女神が部屋へ入って来た。

「幽霊女神から相談を受けたから行ってくるわ。ちゃんとお勉強するのよ」

 そして出て行った。黒い大きなワンピースの彼女がそのまま夜に消えてしまうのが窓から見えた。

「まったく、ほっとけばいいのに、どれだけ過保護なのよ、ねえ。わざわざ言いにくること? それより、アイちゃん。勉強よりも、もっといいことしましょ」
 メガネを指で少し下げ、上目遣いに、とろけるような声で三角の女神は言った。
「でもアイ、勉強しろって言われたし」
「いいのよ。もう完璧にわかってるでしょうから。こっちおいで。……これよ」
 三角の女神はアイの手を引いて、部屋を抜け出し、外の壁に立てかけてあったそれを手に取ってアイに示したのである。それというのは、二つのスコップであった。アイは押し付けられるままスコップを掴み、また彼女に引っ張られるまま彼もまたその黒いシャツごと夜の闇へ消えた。


 __火急の用土に汚れる母親の〈瞳=枯れ井戸=娘〉の新月

 ワールドザワールドの女神は墓場で幽霊女神に高速で耳を通過するような挨拶をした。目にも止まらぬ速さで本題に入る。
「どうしたの、困ったことって」
「実はね……この隣に、墓荒らしの家族の住む、墓荒らしの家があるの。決して裕福な家とは言えないの。母と息子が住んでいるのね。でも、その母親が今病気で寝込んでいるらしいのよ」
「ええ。それで」
「もうすぐ、その……」
 柳の枝より風に弱く人の吐息にすら反応して自分の意見を変えてしまうような、控えめな瞳をもった幽霊女神はその重心がいつも右に左によれかかるのと同じで、彼女に語られる話もいつも右に左に倒れそうになる。
「はっきりしなさい。言えばいいじゃないの。そのために私を呼んだのでしょ」
「ええ、そうね。実はその墓荒らしの母親が、もう少しで死んじゃうんじゃないかと思ってるのよ……。寝込んでいる理由もきっと治らない病気で」
「あら、なるほど。見にいきましょう」
 墓場の塀に沿って建てられた墓荒らしの家。ワルワルの女神が歪んだ扉を叩くと長男の墓荒らし青年が戸を開けて顔を出した。青白くて痩せこけていて、いつでも目の下にくまをつくっている。彼とは反対な骨太で重力の強い母親は、生来いつだって気丈に振る舞う性格であったが、今夜はとてもそうとは言えなかった。中の様子をうかがうと、鉄のベッドに寝込む彼女は、目もうつろで、泥水の老魚のように覇気がなかった。

 ワールドザワールドの女神は、墓荒らし妹がいないのに気がついた。

「妹ちゃんは元気?」
「え、ああ……げ、元気だよ」青年が答える。
「今夜は帰ってないの?」
「……ああ、……今はね」
「あらそう。ねえ、墓荒らし母親。調子はどう」
 うんともすんとも言わない母親。
「あまり、元気はなさそうね。泥水の老魚と言った感じ。それは地の文で使ったのかしら。ええっと……じゃあなんて例えましょ。……ねえ、いつまでそうやっておろおろしてるの、幽霊女神」
「ええ、そうね。でもここすごく空気が悪いのよ」
「墓場より?」
「ええ、そうね」

 すると部屋にガサガサと言葉にならない声が響いた。布団もむず痒そうに動く体に引き摺られて新しくシワをつくった。墓荒らし母親が喋り出したのだ。

「あの子は、本当にいい子だよ」
「あの子? ああ、妹ちゃんのことね。その通りよ、あの子だけは、この家で唯一まとも。正直で真面目で努力家で真剣な子ですもの。それよりあなたを何に喩えたらいいのでしょう」
「あの子だけは、天国へ行けるのよ」
「そうね。それより、墓荒らし母親、こんなに調子が悪くなった原因に、思い当たることはあって? あなたほんの数日前まで、とても元気が良かったでしょう」

 墓荒らし母親はそれ依頼、全く声を出さなくなった。その沈黙は2分18秒続いた。
 2分19秒目に口を開いたのは、部屋の隅で小さくなっている幽霊女神だった。

「もしかして」と幽霊女神が窓にかかったカーテンを少しだけめくって、庭のほうを指差す。「あそこを通ったとき、見かけたんだけど」

 幽霊女神が指差したのが何かワルワルの女神には分からなかった。「連れてって」と頼む。
 幽霊女神が向かった先は旧式の石造りで底深く掘られた井戸だった。が、その井戸は土で埋められていた。

「あんなことしちゃダメじゃない」とワルワルの女神は、家に入るや否や墓荒らし母親を超えてこの家自体に伝えたいかのように喧々と放った。
「井戸はね、埋めちゃダメなの。そりゃあ、体調が悪くなることもあるでしょ。……どうしよう、とりあえず幽霊女神、井戸の女神を呼んできてくれるかしら。彼女なら対処法を知っているはずだわ」

「妹だけはね……本当に賢い子だった」と墓荒らし母がいう。
「そうね」とワルワル。
「俺、墓荒らしてくる」と青年が家を出た。
 幽霊女神はもう消えていた。


 __楽しげに化石の横で笑ってる シーシュポス神話かたんなる趣味か

「ねえ、こんなことして楽しいの」
「ええ、私は小さい時から、これが大好きよ」
「なんで?」
「だって掘るのが好きなんだもん」
「へー」

 アイと三角の女神は、肘先まで土まみれになりながら、スコップでただただ穴を掘っていた。もう二人とも、地面から完全に隠れ、そのまま蓋で隠せてしまうくらいだが、それでもまだ掘り続ける。

「村にも一人いるよ、穴を掘るのが好きな男の子」
「そうでしょ、だって楽しいもの。アイには分からない?」
「あんまりね。何が楽しくて、こうやって掘るの? 何かが埋まっているかもしれないから?」
「違う、ただ、掘るの」
「へえ、まるで泥水の老魚みたいだね」
「は?」
「ことわざだよ。え、あったよね、こういうの」
「あるけど......全然使い方違うよ」


 __悪女の足首 小虫の止まる白と黒 生肌に穴があいちゃったみたい

 どこに消えたのかと思われた幽霊女神は井戸の女神を連れて帰って来た。
「なあ、女神が三人も揃うなんて、気持ち悪いな」と井戸の女神はやってきて早々足元に唾を吐く。

「人の庭で唾を吐かないの。ねえ、これ、どうしたらいいの」
「あらら、埋めちゃったか。うん、じゃあ、水の石をここら辺に置いとくしかないな」
 井戸の女神は埋められた井戸のすぐ隣に座って井戸の仔細を確認した。

「はあ」とワルワルの女神はため息をつく。「探しにいきましょう」

「地層の奴とかいなかったか」
 と井戸の女神が庭を出しなに聞いた。
「地層の女神ね、基本会えないわ。どこにいるか分からないから。あったことないでしょ」
「いたら……すぐ見つかるの? その、水の石というの」
 幽霊女神が尋ねる。
「そうね」
 とワルワルの女神は頷く。「鉱物だったら彼女はあまねく把握してる」
「でもいねえんだろ、そいつ」
「そうね」
「まったく」と井戸の女神は首をかきながら言った。「泥水の老魚みたいな奴だな」
「全然違うわよ」
 ワルワルの女神は間髪を容れず否定した。


 __ぽちゃっとした乳房揺らして穴を掘る 汚れた毛並みのもぐらも震える

「うーん、三角の女神、これ以上進めないよ」
「私としたことが、樹の根のことは考えてなかったわ。こんな深くまで張ってるのね。やだわ、どうしましょうかしら」
「のぼる?」
「そうね、穴は埋めましょう。アイちゃんも眠たくなったでしょう」
「うん」とアイは、壁を見てみた。「これ、横に掘れるんじゃない」
「そうね」と上を見上げる三角の女神。「ここまで深く来たら、横に行ってもバレないかもしれない」
「バレない? 誰にバレないの」
「間違えた、横に掘れるかもしれない」
「行ってみよう。どこまで行けるか。もしかしたら、未知の国がそこにあるかもしれない」
 二人は鉱山労働者よろしく、穴を横を掘り進め始めた。


 __眠れない 仕事が重なる 7月の 夜の夢ほど 働いている

 黒い広葉が夜空を隠す。墓からずっと南へ行った先にある樹林には拾った落ち葉を売っているおばあちゃんがいるが、彼女が出す店の後ろには七色の断層がある。七色の断層の前でワールドザワールドの女神はランプをかざした。水の石の層がぬらりと光る。
「ようやく見つけたわ」
 形がまとまっているものを一つ取り出し、墓荒らしの家まで持って帰った。

 井戸を埋めた土をほじって石を埋めた。
「ねえ、墓荒らし母親、もう大丈夫だからね」

 そう告げると、今度は井戸の女神に礼を言い、幽霊女神を帰して、自分の家まで帰って来た。シャワーを浴びてからベッドに潜る。そして目をつむった。

 しかし、その夜彼女の寝室で、不思議な声が響いた。

「苦しい……苦しい……息ができないよ」
 裏返るほどの勢いで目をあけて起き上がる。墓荒らしの家へ急がないと。

 到着するとすでに墓荒らし母親が死んでいた。墓荒らし青年はまだ帰っていない。ワールドザワールドの女神はため息を落とすが、またすぐ気を引き締めて、家に帰るとタンスを開け、そこから出した警官の服に着替える。そして偉大げに胸を張ると、
「ぷーぷー」と叫びながら、墓荒らし青年を探しに夜の景色へ。


 __暗言す 謎の少女の正体は? そは物語の 仕組みのぞ知る

 アイと三角の女神は掘る手を止めて、もぞもぞ動く壁を見ていた。巨大モグラでもいるのだろうか。二人して口をつぐんで、真剣に待ち構えていると、壁が崩れて人が出て来た。
「あら、あなたたち誰」
 出て来た彼女は言う。
「アイと、家庭教師の三角の女神」とアイは答えた。「なんで、こんなところにいるの」
「逃げて来たのよ」
「穴を掘って?」
「ええ」
「うわー、それこそ本当に泥水の老魚だよ」
「当たり前じゃない」

 それから三人は、地面の上まで帰ってくると、それぞれに別れた。アイは自分の部屋へ、三角の女神は数学の参考書へ、地層の女神は誰も知らないところへ。


にゃー