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みどりちゃん t6

「ねえ、みどりちゃんには、恋人みたいな人はいるの?」

「いないよ。しずくちゃんにはいるの?」

 聞き返すと彼女は照れたように首を傾けた。

「ぼくにはいるよ」とひっつき虫が云う。「ぼくのとなりにいたジェシカちゃんだ」

「あら、そんな風に名前がついてるの?」としずくちゃんが聞く。

「そりゃあね、ぼくだってなまえがあるさ。ぼくのなまえはリアン」

「かっこいい名前ね」

「うん」

「それでそれで」とわたしは話を戻す。「しずくちゃんの、恋人ってどんな人なの」

「ええっと」と彼女は下唇をかんだ。

 つくづくかわいい仕草をする女の子だと思う。彼女は、大きく腕を組んでそこから人差し指をだして頬に当てると思い出すようにして語った。

「変わった人」

「どんな?」

「はねでもはえてるの?」

「リアンは少し黙ってて」

「あるときね、そう、ちょうどいまのみどりちゃんみたいに、服にひっつき虫をつけて帰ってきたの」

「あら、好き者ね」「いや、しゅみがいいんだ。さいこうの男だよ、そのかれ」

「それでね、それを指に乗せて、両膝をついて座ると、それを掲げるようにわたしに見せるんだ。そしたらね、彼が云ったの。『ひっつき虫がいなくなったって、困るものはいないだろ。こいつがこの世にいる必要はない』って」

「どう云うことなの?」「さいていな男だ、そのかれ」

「違うのよ、リアンくん、続きがあるの。それからわたしは彼を椅子に座らせてね、すると続きを話すのよ。『けれどそうやって生きようという意思みたいなものがあるんだ。立派じゃないか。わざわざひっついてまで、どうして命をつなげようとする。それほど大事なものかいな、この生きるということが。しかし、それゆえ素晴らしいよ、美しい。命というものは、誰に望まれたものでもないのに、そうやって次の命を生もうとする意思みたいなものがあるんだ。正しいじゃないか』『正しい?』ってわたし聞いたの。するとそれを力説したのよ。『だってそうじゃないか。生きることは、それ自体で正しいだろ。そうしたらだよ、こうやって誰に望まれてもいないぼくだって、立派に生きようとしてもいいわけさ。誰がこれを否定できるものか』わたしはね、そのときとても悩みがちだったから、その言葉に救われたわ」

「すごい。面白い人ね」「さいこうの男だ、そのかれ」

「彼の名前は覚えてる?」とわたしは聞いた。

「ええっと……とうって呼んでたわ。だからたまにね、とうちゃん、って云うの、すると『君の親になった覚えはない』って云うのよ。おかしいでしょ」

「なにがおもしろいんだ」とひっつき虫は云った。でも、しずくちゃんは耳に入っていないのか、彼を思い出して、続けた。

「心臓からビュンビュンと風を吹かせる元気のある人なの。脳みそが光っていてね、となりにいるだけで、暗い道でも足元を見分けられるくらいの」

 わたしたちはその例えに思わず笑った。知らないながらに、彼のその人柄と、形容に合意したのだ。なるほど、たしかに、そういう人らしい。すると、その笑いの中でしずくちゃんは何かを思い出したらしく、はっとした表情をした。どうしたの、と聞くと、彼の言葉を思い出したらしかった。さっきの続きだよ、と前振りをして彼女は憑依したかのように長台詞をよみだした。

「彼は食べるときにばくばくと一気に口に詰め込んで食べるの。それでそのまま喋ったりするから、机にお米が飛ぶのよね。それでね、彼はそうやって晩ご飯を食べているときに、またひっつき虫の話をし始めてね。『地球は罪であり、褒美だ』って云うの。『突然にどうしたの』『だってそうだろう。ほんとうにこの世界の生物はどれも全て生きようとしていている。それはこの地球に最初の生命が生まれた時からそうなんだね。アメーバーさ、アメーバー。いちばんの最初はアメーバーだったね。ある一つの命がぽっと海の中にひらめいたんだよ。そのひとつの命を頑張って、それでいてその素晴らしいものを次の命に授けたんだよ。もし自分が死んでも、次は君に頑張って欲しいと云ってね。そうやって、アメーバからアメーバへ、魚へ、カエルへ、恐竜へと、脈々つないで、いまの地球の無数の生命に広がる。とても長くて、とても広い道のりさ。そうしたら、そのうちに人間が生まれて、これまたその命を生きるのだね。万葉の時代から戦国とか江戸とか、新たな生命にと渡していったんだ。そしていま、それがぼくの番に回ってきて、ぼくはその命を預かっているのさ』『長いね。よかったね、順番が回ってきて』『ああ、長いさ。それに、命を受け取ったのは、君だって同じさ。それがたまたま同じ時代でぼくと出会ったんだね、すごいことさ』『うん』わたしはね、確かにすごいねって思ったの。そうでしょ……。『これはね、ぼくがひっつき虫をひっぺがした間から見つけた哲学さ。命の根源の生命維持種族存続の意思を思ったね。けれどこれだって、偶然なんだ。天の意地悪さ。ただそれによって苦しむんだね、われわれは、生きることにさ。これは誤算かね、それともこれも偶然かしらん』彼はね、全部は偶然だってよく云っていたわ。これがそうなったのも、あれがそうなったのも、そのまま偶然だって。……ああ、みどりちゃん、もうすぐよ」

 しずくちゃんは気がついたように、蕩然とした表情から、元の大人しい落ち着いた顔になってから、少し口元に笑みを浮かべてわたしに云った。

「もうすぐ……微生物の部屋?」

「そう。とうくんはね、微生物が好きだったの」

「だった?」

「そう……」

 わたしたちは暗い青色の扉の前までやってきた。そこには微生物の部屋と書いてある。わたしはその扉を開け、しずくちゃんが中に入った。

「思い出の場所なの?」

 とうくんのことを思って、わたしは薄氷を踏む思いで聞いた。しかし彼女は空想の中にいるのか、わたしの声は聞こえないみたいで、答えないばかりか反応すらしなかった。それからちょっとだけ顕微鏡をのぞいて、わたしに場所を譲る。わたしもその顕微鏡に目を当ててみた。するとそこには、元気な微笑物が二、三匹、見えたり出ていったりした。

「みどりなら大丈夫よ」

 と彼女がうしろで云った。わたしは顕微鏡から目を離して、台から降り、何かと聞いた。すると彼女は自分の首の後ろに腕を回して、細かい作業をしていた。それはネックレスを解く作業である。しずくちゃんはそうやってネックレスをとると、服の下からそれを引っ張った。

「これをみどりちゃんに渡したかったはずなの」

「あ」

 と出てきたそのネックレスは、わたしがつけているのと同じロケットペンダントであった。

「わたしも同じのを持ってるよ」とわたしも首から外してみせると、彼女は驚いてそれを見た。そして、

「じゃあ、交換しましょう」と笑った。それからわたしが彼女のネックレスを受け取るとき、「あおのこと、頼むね」と彼女は云った。わたしがうなずくと、「それと、わたし、わたしの名前を思い出したわ」と云った。

「なに?」

 彼女は名前を、とても大切そうに教えてくれた。彼女に似合う優しくてかわいい名前だった。わたしはきょうからなにをすればいいかと彼女に聞いた。兄をどうすればいいのだ。

「心を大切にね」

 と彼女は教えてくれた。それでわたしたちはもうなにも云わずに別れた。水族館から出ると霧はもうすっかり晴れて太陽が輪郭を光で混ぜていた。わたしはすっかり静かになったひっつき虫を帰しに土のある公園まで寄り道した。そこに埋めてから、わたしは家に帰る。家に帰ると母が朝ご飯を作り置いてくれていた。わたしはそれを食べて、それから荷物をまとめた。もう一度、兄のいるところへ行くことに決めたのである。

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