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みどりちゃん p18

 朝から丸植さんと一緒であった。わたしがまだ開店準備を終わらない前に、彼は静かにやってきた。気がつくともうエプロンをつけ、わたしの後ろに立っていた。

「ここのバイトはどれくらい?」

 と彼は聞いた。例の如くわたしは慌てるのだが、ここで一旦落ち着くことにした。右見てライト、左見てレフト。ふっと一息吸って、聞かれたことに一生懸命言葉で返すことをまず心に決めた。

「あんまり……」

「長くないのかな」

「うーん……」なんとも煮えきらない受け答えである。わたしは首をかしげる。なんだか、何が何だか、これは本当にわからない。でも当人は、その瞬間、もう頭の中は灰色の不可思議で一杯なのだ。

「どうやって知ったの? ここのバイトを」

 と彼は質問を変えた。

 わたしは彼をみることができない。ちらと口元をみて緊張する。こういうところが俗にいう話しかけるなオーラなのだろう。申し訳ない。話しかけられて、困ってこそいるものの、嫌がってはいない、つもりなんだけれど。お兄ちゃんが元から働いていて、クビになったからお兄ちゃんが代わりにわたしを紹介した、とわたしは質問に対する返答を思い出した。それでわたしはようやく答える。

「お兄ちゃんに」と。

「お兄ちゃん? どういうこと」

「もともと、お兄ちゃんが、ここに働いていて、代わったんです」

「へえ、働いてたんだ。あおさんでしょ。いまは働いてないんだね。ふふふ。そのお兄さんに紹介してもらったわけだ。なるほどなるほど」

 わたしはほっとした。昔よりこうやって話せるようになったのは、しかし大きな成長であると嬉しくなった。

 わたしたちは仕事に戻った。

 働くことに関しては、丸植さんは、もうわたしと同じくらいに理解している。ここにくる以前に、どこか同じような職種を経験していたのだろうか。昼も過ぎて、夕方になる前の、まだ空が青い夕方どきのこと。店内にお客さんが少なくなって、食器洗いもなくなって、ちょっとできた空白時間のこと、レジの前ですることもなく立っているマネキンのようなわたしに、丸植さんは話しかけた。「ねえねえ」と声をかけて、

「メビウスって呼ばれてるんだね」

「メビウスさん?」

 わたしはメビウスさんとは呼ばれてないけれど、何かの間違いをしたのかな、と思ったけれど、そうではなかった。彼はきちんとメビウスさんの話をしていた。

「うん、彼だよ。昨日僕と入れ違いだった先輩のこと。このまえ、同級生の人かな、あおっていう人がきてね、ああ、あれが、君のお兄さんだったか。けれど、そのあおさんとメビウス先輩が、ここで壮絶な喧嘩を見せたんだ。と云っても別につかみ合いなんかをし始めたわけじゃあないけれどね、云い合いだよ。けれど、声のトーンこそ荒げないものの、それなりに圧のある静声で、云い合っていたね。どうしても分かり合えないって風だったさ。あはは。お客さんも居心地悪そうにして、ついには帰ってしまったくらいだよ」

 メビウスさんと兄との喧嘩。たしかメビウスさんも云っていた。これが東京へ引っ越す理由であると。喧嘩、か。いままでだって何度かしているけれど、それほど壮絶なすれ違いだったのだろうか。

「どうやらメビウス先輩が、あおさんをせめている風だったな。『君は異常だ』『考え直すべきだ。手遅れだが、反省するべきだ』といった感じだっけな。ははは。聞いてるかぎりね、あおさんはね、ある女の子にふられたんだ。そう予想できたよ。別に先輩だからといってメビウス先輩を贔屓するわけじゃないけれど、なんだか、嫌なタイプの男だったね、そのあおっていう人。ああ、君のお兄さんか。嫌な気になった? だけれどね、女の子が好きみたいなんだ。それでいろんな子と遊んでいるけれど、……ああ、これは山下さんの前ではちょっと云いにくいけれど、そのあおさんは、女遊びはしてるけれど、女性経験はないみたいだったよ。それで初めての恋人ができたが、ふられたと。ふふ。まあ、調子に乗って生きているタイプの人間だったからね。まあわかりきったことさ」

 いったいどんな言葉が飛び交ったのだろうか。どんな台詞が並んだのだろうか。気になってしようがない。丸植さんの話す内容には普通な驚きごとがいくつもあった。はあ、それほど取り乱すものだろうか。

「僕が店に入ってきて着替えて、食器洗いなんかをしている間の出来事さ。メビウス先輩はもう僕がきていることなんかに全く気付かないくらいのものだったね。もちろんあおさんも、僕に気付かなかったね。それだから、昨日喋ってみたんだ。実際話してみると、あおさんというのは、どういう人間か。あまり僕とは意見が合わなかったね」

「話……うん、どんなふうだったのですか」

 別にこれ以上気になるわけでもないけれど、ここで終わっても沈黙がかぶさるだけなので、続けてみようというわたしなりの挑戦である。

「昨日いたでしょ。聞いてなかったんだね。内容は話さなくたっていいよ。僕は、ある程度は話を合わせて、盛りあげたけれどね。でも彼とは、僕は意見は合いそうにないよ」

 まあ、たしかに、兄はあまりいい性格ではないのかもしれない。わたしには、わたしが感じるかぎり、とてもよく、優しくしてくれるけれど、それ以外の他の人に対してどういう振る舞いをしているかなどは、あまり考えることがなかった。いや、一度だけ聞いたことがある。メビウスさんが云っていたのだ。「彼は学校では王様だね、本人は革命家ぶっているけれど、そんな大層なものになれるとは思わないね。普通の育ちだからね」


 ここまでのわたしはわりとよかった。何がというと、機嫌というか、調子というか、精神針みたいなものがである。少々の振れはあったが、およそ安定していた。けれど、この後に何があったかといえば、こういうことである。

 まず、わたしはお客さんである、ひとりのおじいさんに叱られた。理由は、抹茶蕎麦にゴミが入っていたからである。ゴミといっても、なんというか、紙の切れ端のようなもの。(ここだけの話、そんなものが、この仕事の過程の中で入ることはないと思うのだ。あまりこういうことを考えたくはないけれど、おそらく——けれど、当事者であるわたしはそんな簡単なことを考えることすら、そのときは頭がまわらずできなかった)本当に申し訳なくって、唇でこらえながら謝ったのであるが、それがあまり良くなかったみたいで、よりおじいさんを怒らせてしまった。すぐにおばばが奥から来て、代わりに謝ってくれ、代金をなしにすることにして、そうするとおじいさんは帰って行った。おばばは、別段わたしに何も云わなかったが、わたしを見もしなかった。落着してから、丸植さんが慰めてくれた。というより、

「ああいうの、苛つくよね」と云った。「絶対に自分で入れてるからね。出ないとああいう怒り方はしない。僕も行こうと思ったけれど、ごめんね。手が離せなくって」

 けれど、わたしはそうではないのだ。別に苛ついたりはしない。これは、兄とも幾たびか話したのだが、わたしはこの人生であまり苛々とした経験がないのである。でも、その分、落ち込んでしまう。

 それにもうひとつ、キッチンで、店のお皿を一枚割ってしまったことも併せて、いまのわたしはこうなっている。こういったミスをしてしまうと極度に無口になる。お客さんに対しても、いつも通りの接客をしようと思うが、恐ろしく声が喉から先に出なくなってしまうのだ。反射的に筋肉が栓を締めてしまうみたいである。再び、「落ち込まなくていいよ」と丸植さんに云ってもらうが、それに対する反応もできずに、わたしはわたしを信じられなくなってしまった。——なぜそうすることができないのか。

 今まさにごめんなさいと云いたいのに、怖くて言えない。一体わたしは何を怖がっているのか。まったく、こういうことが、辛いのである。


 わたしは、晩ご飯も喉を通らなかった。それにくわえ、眠れなくなってしまった。

 兄も帰ってこない。どこにいるのだろうか。またひとりである。世間的にはどうなのだろうか。わたしはそれにしても、ひとりな気がする。まあ、それも当たり前である。わたしは友達なんてできたことがない。いままであまり考えなかったけれど、ほんとうにそうである。硬い言葉は使いたくないが、異常、なほどだ。

 わたしは誰といられるのだろうか。そんなことを考える。おそらく、誰ともいられないだろう。まず、コミュニケーションが、どうしてもできないのだ。喋る内容がわかっても、声の出し方だってもちろんわかってるけれど、どうして人と話せないのだろうか。何に怯えているのだろう。まるで、ビルから飛び降りなくてはならないような、そんな恐怖感に足が竦むのである。

 わたしがこんな性質だから、いままでだってどうしようもなかったし、これからだって到底生きていけるとは思えない。たとえば、どこかの人の輪にはいって自分を出すなんてことは、一生かかってもできっこないと思うし、その上で人付き合いをして生活を送っていくことも想像できない。そんな人間が生きていけるとは思えない。きょう一日がこんなに苦しかった。それがまた明日の一日、この長い一日を過ごさなくてはならないのだ。重たいため息が出てしまう。眠れないのは、明日が来て欲しくないから? こんなに辛い一日を、あと何回繰り返すのだろうか。数十年もこれから先を生きながらえてゆくことなんて、逆立ちしても考えることができないものである。早く、五月一日が来て欲しいと、わたしはふと思い出した。

にゃー