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『大日本人』の長いフリとショート嗜好 (8/8)

TikTokずっと見ちゃうよね問題。

あ、どものり子です。
暑いですね。こんなにポカリが美味しい季節があるとは、驚きました。

さて。

最近本を読んでて気づいたことがあります。
それというのは「短いと嬉しい」……これです。

長い本に関して集中力や興味をラストまで持ち続けることの方が稀であるのは昔からなのですが、最近めっきり章やテーマが小分けにされた短編集やらエッセイ集に手を出してしまう傾向が。

夕方中ずっと寝てしまったせいで眼の醒めた夜中でした。
で、学校の図書館で借りた『風土記』と『聊斎志異』を読んでたのですが、どちらも短い話の集まりです。中には二、三ページ続くものから、ほんの数行で終わるものがあって、『風土記』に関して言えば一行ぽっきりで終わるものもある(単なる地名の由来だけ記してるやつとか)

それを見るだけで嬉しいというか、ぐっと気が楽になるわけですね。
「短けぇ」と。
別に読まなきゃいけない訳でもないので、辛いなら読まなければいい。
それはそう。
でもこっちは、そもそも読みたい訳です。
読みたいのに、長いとガクンとくる。気合いを入れなければならない。

そういった情感を上手く嗅ぎとって定着させたのがTikTokに始まるショート動画だと思うのですが、——今書いてて思い出しましたが、かつてVineというのもありましたね。
ともかく、この〈ショート嗜好〉を少し考えると、テレビの現状もそうなってるなと思ったわけです。

ショート嗜好です。テレビも。
番組自体は一時間やっても、内容的には短い笑いを積み重ねてる。
有吉の壁にせよ、月曜から夜ふかしとか、オドぜひにしても。

感覚的にはタイムマシーン3号さんが出て数秒で笑いをとって、スワイプすると今度はあばれる君さんが出て、つぎはとにかく明るい安村さんが出る、みたいな。

クイズ番組が増えたり、番組に出る人の多さが増えるのも、このショート嗜好に関係するのではと思ったりします。

じゃあこれが最近始まったかというと、案外そうでもなさそうで、自分の見てきたテレビだけ思い出してもレッドカーペットという番組なんかもうもろにショート化されてるわけです。

だからTikTokにテレビの切り抜き、転載が蔓延るのも豈図らんやといいますか、露悪的に言い換えるとTikTokで代替可能なものをテレビがしてしまってるということでもあるんでしょう。

じゃあ、ショート的でないものを作れるのかってのもぼんやりと考えてみちゃったりしまして。
(のり子が考えたところで、どうしようもないのですが)
水曜日のダウンタウンは割と時間をかけてたりする。のり子が一番好きなのはパンサーの尾形さんが落とし穴から自力で脱出した回で、あれは一時間やってたと思います。

あの脱出した瞬間の感動はきっちり一時間の長さをかけて見続けないと得られないものなので、なかなかすごい。
この、それまでの時間をかけないと得られない感動・笑い・理解みたいなものを、現代はすっかり捨ててしまってる。捨ててしまってるとまでは思いませんが、少なくとももうあまり求めてられてない。
のり子だってそうな訳ですから。


本を読むのも一時間ちょっと経ったら疲れてしまって、そんな考え事をしてたらふと松本人志さんの映画を思い出しました。
『大日本人』
これもそれまでの長い時間を見続けて初めて得られる最後の笑いだったと。

で、眠気もまだないので夜中の2時くらいから見始めたのですが、こんなに面白いとは思わなかった。
多分中学生の頃が一番松本人志を好きだった時代で、そのころに何かしながら見た覚えがあるのですが(その時点で映画いっこ見る集中力すらない)、ここまで感動するものだったとは思いませんでした。

ここから話は逸れるんですが、それこそが文字ラジオのテーマみたいなものなので、逸れてるなと思いながら進んでください。
ただただ映画の感想を書きます。

まず序盤、これがいい。
ずっと夕暮れです。ごっつええ感じとかVISUALBUMも見たことあるのですが、それらに通底するこの寂寥感。今風の言葉でいうエモさ。

宮沢賢治が使うだけで「石」という文字一つとってものり子が使うのとは違うように感じる。宮崎駿が描くだけで、もう普通の水じゃない。みたいに、これらは作品のすべての細部が作る全体的な空気感によるものだと思うのですが、とにかく、芸術家にとって「世界」を持っていることは強い。と思うのです。

松本人志も世界を持っていると思います。
よく言われるシュールな作品作りみたいなあの独特な笑いのセンスには、モンティパイソンや筒井康隆、中島らもみたいにほとんど直系に見える先達がいますから、彼ら(ときっとギャグ漫画)からの影響と時代の空気感が作ったのだろうと思うのですが、独特な寂寥感に関しては何かの影響とかではなく、おそらく個人的な記憶に根があるのでしょう、とにかくこれに痺れるわけです。

『大日本人』にでる食器や子どもの遊びや、風の音。これらがとても個人的な記憶そのものに見えて見てるこっちが苦しくなる。

もう一つは間がとにかくいいと感じました。
セリフの間。

ここまでは序盤に感じたことで、そこから一時間近くは退屈でした。
前半はだから特に笑いもなくって感じです。
ただ今回ののり子は、ショート嗜好とは手を切って見てますから気にならない。
心がけ一つでこんなにも耐性がつくのかと自分でも驚くほど。心がけのおかげなのかわかりませんが。もしかするとさっき書いたセリフの間がいいおかげで、見続けられたのかも知れません。間がいいと、次何かあるかもという期待だけがほつほつその都度湧きますから。

面白くなったのは板尾創路さんが出たところからで、この怪獣と神木隆之介の怪獣は笑った。
主人公のおじいちゃんが助けに来てくれるところも。

そしてここまで来るとラストのオチはやっぱり笑えるのです。
これってすごいなと思いました。勇気があるなと。
この映画を「つまらない」と言ってしまうのは、これに耐えられなくなったからではと思いました。我々には二時間は長すぎる。映画に求めているのはそういうのではなく、飽きないよう次から次へ秘密道具やらビックリドッキリメカを出してくれるジョットコースターだと。

この作品をよく感じたの理由にもうひとつ。
ヘンテコな本を見つけるのり子の趣味とマッチしたのは確かです。

のり子はあらゆる作品を大きく〈エンタメ的〉と〈文学的〉に分けて考えたりします。

みんなが理解できるのがエンタメ的。
誰も理解できないのが文学的。

共感の上に成り立つのがエンタメ的。
誰も共感できないものを書くのが文学的。

エンタメは理解しやすく、共感できる作品作りなのでみんなが楽しめて、見てる方も割に楽に好きになれる。
対して文学的なものは理解しづらく、共感もできないことが多いでのみんなで楽しむのは不向きですがその分、理解、共感できた時、その作品を自分自身のように感じることができる。

『大日本人』はどう考えても共感しずらい。
この作品を「大きな存在になってしまった松本人志自身」とも、「自衛隊・安全保障条約」とも見ることもできるのでしょうが、それにしても作品作りが共感を拒むようにできている。

そのうえのり子は文学にも〈マジメな文学〉と、〈フザケた文学〉があるように思いますが、『大日本人』をフザケた文学に入れましょう。
最近見た『シン・仮面ライダー』より好きで『君たちはどう生きるか』と同じくらい好きって感じです。何の基準になるかわかりませんが。

前半のショート嗜好の話に戻しますと、この映画、ショートスパンの笑いは神木隆之介怪獣のシーンくらいじゃないかなと思います。板尾創路怪獣のシーンも後半はショートスパン。でも前半は今まで怪獣とのコミュニケーションは一切なかったのをフリにして急に会話しだすので、だいぶ長い。一時間のフリがあったことになります。

また話を逸らしますと、松本人志さんは不幸になりたい人なのかなとも感じました。これは、この映画を見てちょっと思っただけの感想で、根拠もないし、これ以上この話を進めもしませんが。


ともかく、ショート嗜好。
これ、以外にやっかいな気がします。
と同時に意識してとっぱらえば、案外とっぱらえるものなのかも、と少し希望を感じたりもしました。

きっと社会が加速しているせいでこうなってると思うのです。

例えばのり子の速度だと、トルストイ『戦争と平和』を読むのに軽く一年以上はかかるでしょう。となると社会の速度と読書の速度がつり合わず、読み始めた頃と読み終わる頃でのり子の状況も精神もあまりに変わりすぎている。そのせいで長すぎると、読んだ作品を一個のかたまりと捉えることすら難しいでしょう。だから短くあってほしい。

けれどそれを押してでも長い作品とも向き合いたいのがのり子の現在の考え方なので、『大日本人』はいい経験でした。
世界観が好きだったのかも知れません。
悲しさが好きだったからなのかも知れません。

『大日本人』を楽しく見れた理由が、本当は何かまだはっきりしませんが、とにかく何も考えずに思いつくまま文章を書きました。

「何も考えず思いつくまま書く」
これがこの文字ラジオのルールですが、つくづくいいルールを思いついたなと、自分を褒めたい。

では。

読書と執筆のカテにさせていただきます。 さすれば、noteで一番面白い記事を書きましょう。