細胞だ、私は。
読書なる運動が、生活の中に組み込まれている人であれば多少、共感してくれるだろう。
生活環境の、あらゆる場所に本がある。
本棚、机は当然として。
ベッド、床、本棚の上やら横やら外、リビング、テレビの前、窓枠。
学校へ行くカバンの中、バイトへ行くカバンの中、それ以外に出かけるとき用のカバンの中。
人によってはトイレや洗面所にもあろう。
便座に座る僅かな時間に数ページ読めるものや、入浴中に読んでもいい(万が一、濡れたり湿ったりしてもいい)本というのが用意されてあるのだ。
そしてこれらの本は、総体として呼吸している。
——新しく読みたくなった本が、本棚から抜き取られた。
——読みかけのそれは、机の上に置かれる。
——バイトへ行く電車の中で読む本も終には読み終える。
——読み始めたが、あまり刺さらなかったのでそれきりにしている本が、机に置いたままだ。
——リビングで読むつもりだったが、部屋で腰を据えてしっかり読みたくなった。
——本棚から数冊、リビングへ置いておく本を選定する。
こんな風に、日々様々な理由あって、本たちは移動を余儀なくされる。
その度に私は、こっちの本をあっちへやったり、あの本とあの本を入れ替えたり、出したり戻したり。
家の中を本の移動のためにぐるぐるぐるぐるするのである。
まいにち飽きもせずあっちへこっちへ運んでいる。
そんな日々に、ふと私は自分というものが、家という巨きな生き物の、内臓か、細胞かのように思えてくるのである。
本というエネルギーを、変換して、持ち込んで、綺麗なのを取り込んで、使用済みを排出する。
もの言わぬ本たちが、今もあらゆる場所で正しい場所への移動を待っているのだ。
にゃー