見出し画像

読書会曼荼羅なるもの(多読の真髄)

随分まえに「読書界曼荼羅」なる単語がわたしのなかでほつと生まれた。定義らしい定義をこれまで書いたことはなかったが、あるにはあるのでそれを載せておきたい。

形式としては、女子博士の記事に出そうと思って随分前に書いた文章の転載である。

その文章を、解説・感想と共に見ていこうという趣旨である。



「博物学的読書のすゝめ」

 私がここで行うのは新概念の共有であるが、これがその実「新」ではさらさらないのであって、単なる名付けにすぎない。つまり新行為の提出ではない。以前から一部で盛んに行われていたことである。
 それを明確に署すため以下のよう明文化した。

・読書界曼荼羅は現象であり、つまり世界である。世界と言ってもこれがまさに象徴的/想像的世界であることには注意されたい。
・博物学的読書とは、方法である。反科学的科学である。好奇心的道徳のみが作用する。



……すごい文章だ。禍々しい。
一年以上も前の文章なので、どんな気分で書いたか覚えていないが、正直、わたしの好きな文章である。ついにっこりしてしまった。莞爾莞爾。

何やらこてこてと難しそうなことを言ってるが、要は新しい概念語を言うよと。そして二つのことを説明するよ、と言っているのである。

その説明を、じゃあ読んでみようじゃないか。



——博物学的読書
 書物は一にしてあらず。書物は多にあらず。
 その意は、書物は一つのまとまりであること、書物がそれ独自で生じたのではないこと。博物学的読書家はある一冊の本を、一つの都市として、一つの国として、一つの生態として、一つの物として捉える。さだめし眺め、晒し、手に触れ、読むであろう。解剖し、紐解き、分解し、盗み取るのである。そのとき書物が非一性の物として現前している。そこから引き出された情報、意味、映像、価値は他の本のそれらと並べられ、もう一つの空間を不可避的に生ぜしめるのである。非一性として現れた本も決して多でないと言うのはこの通りである。必然的にそれらは隣の読み物、異時代の書、別世界の本、ありとあらゆる文章と連環され勝手に体系を作っている。博物学的読書家はそのまだ見ぬ世界を探索するのである。その探索すべき世界、あるいは見つけられた世界の総体が読書界曼荼羅である。そしてまさに創られたその世界こそが元あった本当の世界なのである。我々は逐次それらを発見、創作せねばならぬ。別天地の二国間から同じ習俗を引き出すように、あるいは祖語を見つける、環境依存による擬似文化を見出す、任意の命題を与え反応を引き出す、そして相違を明らかにすることにも比較されよう。



まず「博物学的読書」の説明から。

まず第一にに伝えたいのは、本はそれ一つだけで存在してるのではない、ということである。

わかりやすく説明するため、縦の関係と横の関係という二つのイメージに導こう。
(原文でいう所の、隣の読み物と別世界の本である)

ある作家が書く。書かれたものが本である。
この本は、ゼロから生み出されたわけではなく、その作家が今まで読んだ本、文章、情報の上に成り立っている。これが縦の関係である。
過去の本があって今の本があり、それが未来の本につながる。

一冊の本を取る。この本の内容はそれだけでは完全ではなく、同時代に出た本、似た内容が書かれている本、同じモチーフを使っているものと比較することで、より一層理解が深まる。これが横の関係。
本と本との比較、共通点、同時代性。


女子博士はとにかく本への理解を諦めたくないのである。
そして一冊の本を理解するために、縦の関係と横の関係を忘れるなと言っている。

そしてこの縦と横は、本が本を呼ぶ形で、網目のように、辿り始めると無限に広がり重なってゆく。これを一つの世界と捉えているのである。
一冊の本の理解のために無数の本からなる世界を知り、頭の中に世界が存在していることが必要で、この世界が有るためには一冊一冊の本を読むことが必要である。
これを曼荼羅と言っているのだ。


これを博物学と結びつけているのは、この曼荼羅はたんにつくるものでなく、すでにあるものを発見するものであるという側面。さらに、地球上に未知の生物や物質があり、それを発見すると同時にそれらの系譜や分類をつくりだしていくのが博物学であるというのと合わせて名付けている。
羽の生えた動物はいた。それをまとめて鳥類としたのは博物学である。つまり鳥を発見し、鳥類をつくったのである。

それと同じことをせよと。

先日に引き続き、のり子の「読書とは能動的であるべし」精神がこの頃すでにあったのである。

ここですでに曼荼羅の説明を終えているが、「読書界曼荼羅」で項を立てている。
次の文章も読んでみよう。



——読書界曼荼羅
 言葉と、言葉と言葉の間と、言葉の裏と、言葉の内と、あるいは文の並行、文の直角、文のねじれの空間に生ずる。別の二書物間内に生ずる。誰も知らぬところで生じているのが読書界曼荼羅である。
 まるで世界が一冊の本なら。まるで世界があらゆる本によって構成された図書館なら。「バベルの図書館」というのはこの発想に近しいイメージを提出してくれる。実際は違う。読書会曼荼羅はユングの「集合的無意識」やラカンの「象徴界」の方が近い概念である。
 読書界曼荼羅は言葉によって生じたもう一つの世界である。読書界曼荼羅にはほとんどの意味で時間はない。またほとんどの意味で空間もない。ただ意味的な広がりを持つのみである。時間がないことはとりもなおさず歴史がないことである。故に全ての本をならならと横並びになる、ただ書かれた物としてのみ取り扱う。ただこれがほとんどであって、僅かな時間の前後を見出すこともあるが、それはそれである。各人の理想の自由だ。が、それを過剰に押し出すべきではない。それらもほとんど横並びにされるべきである。同一(意味)空間の媒介物、無所有の或る物らが、ずっと仕切りのない無限の表象盤面として広がる。その一面の板が読書界曼荼羅である。



こっちの文章は内容が浅い。

それもそうだ「博物学的読書」の項でほとんど「読書界曼荼羅」の説明を終えてしまっているからである。
この辺の構成の弱さが、過去の自分にはあったみたいだ。

ここで言いたいことを短くすると、我々が生きている世界と、本と本との関係の中にある世界(曼荼羅)は別で存在する。ということくらいか。(現象の世界と意味の世界、という格好いい言葉を思いついたのでメモみたく書いておく)

賢く見られたいから無理にボルヘスやラカンを並べているが、賑やかし以上の意味はない。


時間は存在しないと書いてあるが、今ののり子はそうは思わない。古い本と新しい本はあるし、それは本を考える上で考慮しなければならないだろう。
きっとこのときは、本を読むことに関して、徹底的に主導権を自分が握ろうとしている。だから全ての価値や意味を向こうに持たせたくなかったのだ。

それがどんな本か、どんな状況で出版されたか、どんな本と関係があるか、それらを全てこっちの観察で決めてしまいたいから、あらかじめ向こうで用意されている情報を最初に無効にしておきたかったんだと思う。


それはさて、次は細々したことをQ&Aみたく書いている。
無理に読む必要はない箇所かと思う。



——責任問題
 読書界曼荼羅上に世にいう情報の正誤はない。あるのは写し間違えのみである。なぜならこれが本の上の話でしかなく、何ら現実に投射されないからである。

——尺度
 あらゆる尺度は解き放たれている。全ての遠近法は独自の面白さ次第である。これはつまり各々の本棚にかかる差異のみが基準となりうるからで、絶対基準の有さないことが明らかであるからである。
 しかしながらこれが個人単位に個別な判断が必要なことを暗に示している。そこに多少なりとも物差が欲しいことも織り込み済みである。だからここに用意しよう。
 基準は単純で、その本の本題でなけれなよりよいのである。普通人が見落とすところであればあるほど美しい。主題からずれた補足、一口、偶然の記述、無意識による時代の証拠や個人的な影、本質的に無意味なディテールを見出すのである。それらを発見することこそ博物学的読書家の本文とするところといえよう。

 さて、以上である。
 かような行為は世間において何らの必要もされていないことから明らかなように、単に趣味の域を出ず、故に豊穣であるが、故に寒々しいこともあるのが事実である。
 しかし是非、我々は読書界曼荼羅を日々豊かにせねばならない。読書会曼荼羅の活性は人間知の活性である。命の色の微細化である。日々の時間の永遠化であり、明日の糧である。読書界曼荼羅が膨らめば膨らむほど、次に手に取る一冊の本が膨らむのである。
 諸君らにまかせるのはこれら全てである。
 どの工程も一人、一力で行うほかないからである。
 一人の仕事が全体に溶け入るところもまた読書会曼荼羅の性質といえよう。



一つは、どんな読解も間違いではないこと。
ではどう読むのがより良いのか、一応の尺度を決めるのがもう一つ。
読書界曼荼羅においてはより本の本題と離れていると良い。

以上の二を伝えている。

例えば、日本中の小説からカツカレーが出てくるものを集めて、それらの共通点や差異を調べてみよう。カツカレーが出るシーンに傾向はあるか。カツカレーをどのように扱っているか。

こんなことを調べるのは馬鹿である。たまたま出てきただけのカツカレーは、その小説において対して大きい意味を持っていない。
しかしそこにこだわるのが、博物学的読書家である。

そして鳥類やらコガネムシ科があるように料理類やらカツカレー科があっていいのであろう。読書界曼荼羅の一角にカツカレー本曼荼羅がある。あるいは馬曼荼羅、ダジャレ曼荼羅、誤字曼荼羅、もちろんSFやらミステリでも項は立つ。

そういう風にひとつの書物を取って可能な限りあらゆる面からあらゆる要素から、ありうる(読めうる)限りの本と合わせてみてよりその一冊の面白みを引き出そうというのが目的なのである。
細部まで永遠に楽しみ続けるのである。


もとより読書に何の意味も価値もないとのり子は思っている。
「本を読むなんて偉いね」と小さい頃に言われ読んでいた過去もあるが、年々、本を読んでも賢くはならないと思い知る。
別に読書がスポーツやら友達とのカラオケやら恋人とのキスより偉いだなんて到底思えない。

本を読むと賢くなったり、物知りになったりするのではなく、本に書いてあったことを知るだけである。これはキスの味を知るのとさして変わらない。一人の人間が一日に生きる時間は他人と変わらないから、何をしててもそれをしただけのことを知るのが世界である。

しかし、本を読むと、本を読む技術が養われる。このことも確かなのであるから、これをもって何か成し遂げることもできるはずなのだ。
そして、そのためには、そのための概念が必要であるから、女子博士は頭を悩ましたのだろう。

読書界曼荼羅は、終わりなき訓練である。
多読を無駄だと宣う馬鹿な哲学者もいるが、十冊読んだ人が次に読む一冊を理解するのと、一万冊読んだ人が一冊を理解するのと、どちらが深みと広がりをもつかは考えるまでもない。

多読批判者は「価値のある本を、数冊、時間をかけてきちんと向き合うことのほうが、いい読書体験だ」
などというが、その「価値のある」「価値がない」はどうやって判断するのか。大量に読んだ人の眼によって判断されるしかないのではなかろうか。十冊しか読まない人の、最高の一冊など、たかがしれている。

さて最後に、なぜ本など読むのかということだけ考えておこう。
それは、単純である。
好きだからだ。
きっと何度生まれ変わっても、本のページはめくっているだろうと確信するくらいには好きである。

だからだいたいが、精読というものも悪くはないのだが、精読していても百冊とかじゃ時間が余る。残りの人生何をすればと悩んで、気づいたらまた本を読むのだから、結局多読になるというのがある。

しかしこちらにも立場がある。一体何の立場なのかは知らないが。

だから、精読も多読もいいという日和った結論で茶を濁したくないので多読絶対主義を掲げているのだ。

ぜひ皆、永劫の曼荼羅制作に勤しんでほしい。
安心してほしい、人生は一万冊読んだ上で、好きな本を繰り返し読んでも、時間が余る。案外長いものなのだ。

読書と執筆のカテにさせていただきます。 さすれば、noteで一番面白い記事を書きましょう。