みみずくは黄昏に飛びたつ  川上未映子 村上春樹


みみずくは黄昏に飛びたつ


このあいだパートナーと話をしていて、ふと聖書の話題になった。
「俺そういえば昔、ラジオ番組から聖書もらったことあるわ」
どんな話の流れでそうなったのかはわからない。
今から30年以上前の出来事を僕は思い出したのだ。

今でも放送されていると思うが、早朝のAMラジオで宗教番組を聴いていた時期がある。ハタチくらいの頃だ。
ちなみに僕は全然無宗教である。
自分の家の宗派がいまだわからない。というかあまり興味がない。
ましてや20歳そこそこの若いもんがキリスト教なるものにさして興味があったとは思えない。クリスマスすら、どうでもいい。
それでもあの頃の僕は何を考えていたのか、早朝のまだ暗い時間帯から宗教番組をラジオから聴いていたのだ。
きっとよっぽど暇だったんだろう。

そして番組にはがきで「聖書希望」みたいなことを書いて投稿したのだ。
そしたら何日かして、その頃住んでいた会社の寮に僕宛で聖書が届いた。

届いた文庫本サイズのソレはしかし、20歳の自分にはハードルが高すぎた。
冒頭の系譜からしてもうダメだった。
誰それは何とかの父、誰それは誰かの兄弟、また誰それは誰かの子でその子供の何とかは何とかっていう人の誰かで、何じゃこりゃと思った。
すぐに放り投げた。聖書を。

聖書って、もっと物語物語してるかと思ったのに。
いや、じっさい物語物語している部分もあるのだろう。
ありとあらゆるところで引用されまくっている天下の聖書である。
よぉく読み込めばきっと面白いのだろう。
あるいは面白い部分もあるのだろう。
しかし自分には届かなかった。
聖書の「物語部分」まで届かなかった。

じゃあ、途中すっ飛ばして面白そうな部分だけ読めばいいじゃん。
そんなことはしたくない。
自尊心が許さなかった。
というか、そこまでして読みたい書物ではない。
僕は完全に聖書を放棄した。わりと早い段階で。

世の中には、
「こんなに人口に膾炙しているのに、その良さがわからない」というものがある。
村上春樹はその筆頭である。
まずうちの姉がそうだ。
まったく理解できないそうだ。
1ページ読むのがやっと。
日本語で書いてあるにも関わらず何を書いているのか全然わからなくて、ようやく読んだ1ページは読書意欲の触手を失わせるのにじゅうぶんだったらしい。
ちなみに彼女はもともとは本好きである。
十代の頃、彼女の読書スタイルを見て自分も影響を受けた部分もある。
赤川次郎、筒井康隆、星新一に関しては、彼女なしでは僕の読書世界を語れない。

何故だろう。
村上春樹作品のおもしろさを、じゃあ、どうやって説明したらいいのか。

僕個人としては、村上春樹という作家はこの国では、まったく次元の違う作家であるという認識でいる。
そのアティチュード。志し。スタイル(文体)。テクニック。比喩と暗喩。
どれをとっても完全なオリジナル、他の追随を許さない。

少なからず人々は彼の文章に触れると、その文体の真似をしてしまう。
もちろん彼を好意的に受け取っている人たちに限るかもしれないが。
知らず知らずのうちに影響を受けているのだろう。
そんなこと云っている自分だってあやしい。
どこかで模倣の芽が顔を出している可能性がある。
くわばらくわばら。

村上作品の良さを伝えるには。
どうしたらよいか。
僕はそれに対する言葉をもたない。
匙を投げる。
「わかるひとにはわかる」ということで、いったん落ち着きたい所だ。

だってそうじゃないか。
説明すればするほど、相手は混乱してしまう。
ある日騎士団長が自分の人生に顕れて云々かんぬん、と。
羊男が地下の部屋へ案内してくれて云々かんぬん、と。
やれ井戸だの壁だのと。
リアリティを追求した「ノルウェイの森」でさえ、その文体がスノッブ的と揶揄される始末。
そんな相手に彼の文章をわからせようとする方が間違っている。
畢生大好きな人は大好きだけど、嫌いなひとはとことん嫌い、という至極極端な読者を持つに至った我が国ではとても稀有な作家である。村上春樹は。
今更ここで云う事でもないかもしれないけれど。

川上未映子の数々の率直な質問は村上春樹を退屈させなかったようだ。
それはかなりの度合いにおいて。
あとがきに村上春樹がじっさいにそう書いている。ヘミングウェイを持ち出して。
なるほど縦横無尽に話が広がっている。
村上作品における登場人物の名前について、グレン・グールドのピアノプレイについて、好きな作家好きな作品、音楽の話、過去の自分の作品について、小説の書き方について。

村上春樹が語る内容の中で興味深かったのは(これは前から知っていたことだけど)、村上春樹は小説を書き始めるときに何も決めないで書き始めるということ。
過去の自分の作品を読み返さないこと。
書いたことをおおむね忘れてしまうこと。登場人物の名前すらあやしくなるほどだ。
さすがに作品の大筋は覚えているものの、ところどころのディテールはほとんどすべて頭から抜けているといってよい。
僕はその話を読みながら、しかしこれは何もおかしなことではないのでは、と思った。むしろ、表現者って往々にしてこういう現象が起こりうるのではないかと。
むかし漫画家の加藤芳郎の話で似たようなことを聞いたことがある。
締め切り間近に自宅で作品を集中して描く。いいものが描けたという実感がある。出来上がったその作品を出版社に届ける。そして家に帰ってきて風呂をわかす。やれやれと湯船につかりながら、
はて、さっき俺はどんな内容の漫画を描いたんだっけな、とまったく思い出せないという話だ。
思うに、村上春樹も加藤芳郎も作品に集中しているとき、ある種の憑依状態にあるのではないか。
現実でありながら現実ではない、ここではないどこかにいる感覚。
それこそ「壁抜け」をしている状態。
芸術家って、創作している時間はそのような状態であることが「普通」なのではないだろうかと僕は思う。

2018年に一度読んでいる再読。


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