科学技術の現代史


1章:システムの巨大化と複雑化

第二次世界大戦後の米国では、第二次世界大戦中に開発された基盤技術をもとに原子力、宇宙開発、コンピュータが冷戦の影響を受けて、潤沢な予算によって大きく進歩していき、冷戦型科学技術と呼ばれた。お互いに相乗効果を産みながら、科学技術を進歩していき、巨大な市場を形成していった。この経済圏が、軍産複合体となり、軍需産業が拡大して、雇用拡大や政治的基盤の強化する構造となっていったのである。

また、冷戦型科学技術は巨大システムであり、複雑に構成要素が嚙み合うことで全体の機能を実現していた。この巨大システムを統合的に管理するためにシステム工学と呼ばれるシステムを最適化するために調整する技術が確立していった。軍需産業の秘匿性や巨大システムである冷戦型科学技術を実現するために、集権的な組織体制が出来上がったと言える。

マンハッタン計画

マンハッタン計画は、当時の通貨で約20億ドルという莫大な国家予算とイギリス、カナダの協力を得つつ、国内の大学、研究所、企業の科学者と技術者を組織的に動かすことで、4年という短期間で開発に成功したのである。また、原料にウランとプルトニウムという2種類で開発を進めて、ほぼ同時にウラン型原爆とプルトニウム型原爆の開発した。開発体制は、企業が一体的階層的に組織され、統制された組織体制の中で、巨大なシステムが構築され、原爆開発は冷戦型科学技術の原型を示したものでもある。

宇宙開発

宇宙開発では、米国はソ連に対して、一歩遅れをとる形となる。1957年にソ連が世界初の人工衛星の打ち上げ、1961年に世界初の有人宇宙飛行に成功したのである。アメリカは、スプートニク1号の4ヶ月後にエクスプローラー1号、ガガーリンの3週間後に有人宇宙飛行に成功した。その背景があり、米国は威信をかけてアポロ計画を打ち出して、約200億ドルの予算が投じられたのである。1969年にアポロ11号は月面着陸に成功し、米国の科学技術力を世界に印象付けることに成功した。

コンピュータ

コンピュータは、SAGEなど対空防護システムの開発やレーダ設備から送られてくるデータからリアルタイムで敵の位置や軌道を算出するシステムなどの開発を通して、進歩していった。防衛システムなどは高度なデータ処理やリアルタイム処理が求められるため、コンピュータの性能向上が必須であったのである。

第2章:崩れる権威、新たな潮流

1970年代の米国では、デタントやニクソン大領領の軍縮思考により、冷戦型科学技術は失速する流れになった。また、貧困問題や都市問題の財政圧迫、社会のニーズに応えるための生命科学への投資なども影響して、冷戦型科学技術への投資は抑制された。その中で、都市開発に冷戦型科学技術で培ったシステム工学を適用する動きがあったが、あまりうまくいかなかった。また、ベトナム戦争をきっかけに化学物質の危険性が認知され始め、科学技術へのリスク対応が進められるようになったのもこの時代である。

コンピュータ

コンピュータ開発は、1970年前後から比較的小型で安価なコンピュータの販売が始まり、PCの登場が大きな変化をもたらした。PCが登場したことにより、巨大システムから分散型の小型システムへの流れがはじまり、半導体の集積度の向上とコスト低下やUNIXと呼ばれるOSによるオープンソース化やユーザ独自のカスタマイズ性が技術革新のきっかけを作った。

3章:産業競争力強化への時代

1970年代後半は、米国経済の成長がオイルショックなどの影響により鈍化して、失業者も増えた年代で、その対策として技術移転やバイドール法や特許政策などが実施された。国立研究所の技術を民間企業に移行したり、バイ・ドール法により、大学や研究者に特許のインセンティブを政府として、明確化することで、政府に帰属されがちな成果を民間企業が活用できるようにした。一方で、企業化rの資金が拡大していく中で、情報の公開を控えるように促されることがあり、利益相反の問題が生じるなど、本来あるべき科学研修の姿が損なわれることもあった。大学が商業化することで、企業で活躍する人材は増えたが、研究の自由度は狭くなったといえる。

レーガン政権下では、特許重視の政策を進めることで国際的に優位な立場を築いていった。一つは、従来認めていなかった遺伝子の特許を認めるなど、特許の対象範囲を拡大したことである。もう一つは特許侵害に対する厳しい賠償請求である。日本は半導体関連で、米国の半導体企業から知的財産権侵害の訴訟を起こされて、多額の賠償金を支払うことになったのである。半導体関連以外でも、日本企業は米国企業から特許侵害で提訴され、大きな打撃を受けたのである。さらに米国はGATTは1995年にWTOへ移行するのに合わせてTRIPS協定も発行して、WTOに参加する全ての国は一定の基準を満たした知的財産制度を整備・運用することを義務付けたのである。この基盤体制がグローバル化の基盤となり、発展していくのである。

第4章:グローバル化とネットワーク化

冷戦終結後の大きな流れとして、軍から民間へ転換が挙げられる。軍事部門の技術者が民間部門への移動に加えて、軍事目的で開発された技術の民生転用が加速した。また、軍事部門では縮小と効率化のためにM&Aが国防総省によって進められた。もう一つは信頼性とコストパフォーマンスに優れた民間市場向けのエレクトロニクス関連技術が軍事部門に積極的に取り入れられるようになったことである。クリントン政権はデュアルユースを推進して、軍による民生用部品やシステムの購入を促す政策やミルスペックの適用を緩和する施策を打ち出した。一方で、デュアルユースが進むことは、軍事技術の気密性の確保が難しくなり、科学技術の秘匿性を弱めたのである。

インターネットの普及

インターネットの普及は情報のオープンソース化に繋がり、ボーダーレス化を実現した。特にPCは国際水平標準がおおっく広がることで、ネットワーク型の分散型システムが広まり、最新の技術を取り込めるようにモジュール化が進んだ。PCの潮流は原子力、宇宙にも広がり、軍事技術もネットワーク型のシステムが普及するようになったと言える。

5章:リスク・社会・エビデンス

科学技術と社会の距離が縮まることで、社会への活用やリスクへの対応の在り方が問われるようになったのである。1990年代からは、リスクを定量的に評価して、その結果を踏まえて寄生することで、現実的で費用対効果が高いリスク対応を行うということである。リスク評価はリスクの性格や大きさを科学的に評価することであり、リスク管理はリスク評価をもとに実行可能な対応策を講じることを示している。そのため、リスク評価は科学的観点で、リスク管理は政治的・社会的観点であるため、価値観に相違があるため、どうつなくがが複雑な問題である。リスク評価は科学的観点であるため、独立して評価することが重要視され、政治的・社会的介入により、ゆがめられないことが必要である。そのため、リスク評価とリスク管理は分離するのが原則である。しかし、リスク評価とリスク管理の意思疎通が遮断されると、リスク管理の判断で曲解されてしまう可能性がある。したがって、分離されながらも意思疎通や重視されるようになり、次第に利害関係者や消費者の関与も必要と考えられるようになったのである。

6章:イノベーションか退場か

2000年代初頭はリーマンショックや新興国の台頭などがあり、米国1極体制を揺るがし始めて、米国経済は急速に低下して、多極化の流れが強まった。また、同時多発テロを受けて安全保障に対する対応が迫られて、軍事費が膨張して財政が悪化した。危機感を覚えたアメリカは、生き残るために旧来のシステムを破壊して、イノベーションを推進した。そのため、情報ツン新技術やバイオテクノロジー以外にも、エネルギーやナノテクノロジーへの投資が増えていき、国家の競争力を図る重要な科学技術へとなっていった。

この流れは、大学や研究機関にも影響して、研究予算の獲得が激化していった。そのため、資金獲得が目的化することで、研究不正が増えたり、論文数を稼ぐことを狙った行為が増えていった。また、確実な成果を上げるために保守的な研究テーマが増えていき、本来創造性を最大限に発揮する環境が崩れていったのである。

インターネットが与えた社会への影響

ブロードバンド回線、SNS、スマートフォン、クラウド・コンピューティングが米国で生まれて、世界に次々に広がっていった。そのため、米国は他国を圧倒するイノベーションを展開していったのである。クラウド・コンピューティングが、インターネットを経由して必要な情報処理サービスを出来るため、自前のシステムを必要最低限にすることが可能である。一方で、データを社外に出すことになるため、セキュリティ面でのリスクはある。今後は、AIと組み合わさることで利用価値がさらに高くなると考えられる。

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