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エッセイ ミステリーは文学にあらず

 誤解をして欲しくないのだが、私はミステリー小説が大好きである。初めて読んだのは、シャーロック・ホームズで、小学校の時だった。中学では江戸川乱歩の怪人二十面相に夢中になり、大学の時は横溝正史を読み漁った。
 しかし、あえて言う。ミステリー小説は文学にあらず、と。もっとも文学の定義にもよるのだが、私は文学とは、作者と作者以外のものとの戦いであると思う。葛藤と言ってもいいし、私個人的には、摩擦という言葉が好きなのだが、戦いの相手は、時代であったり、社会であったり、組織、家族であったりする。その戦いの最悪の結果が「死」であり、最良の結果が愛情、理解というものになるのだと思う。「死」に至るまでの過程、「無理解」「孤独」「貧困」「差別」・・・といったこともテーマに含まれてくる。実際の作品の中では作者が他の登場人物に置き換わっていることも多いが、いずれにしても最悪の事態である「死」をいかにして避けるかというのが、文学の大前提であり、最大の目的であると思う。「死」を避けるために文学者は悪戦苦闘をする。
 それに対して、ミステリー小説は「死」を前提とする。「死」のないミステリー小説は極めて少ないと思う。「死」からスタートすると言っても過言ではない。まず「死」があって、そこから「誰が死んだのか」「誰が殺したのか」「どうやって殺したのか」「なぜ殺したのか」の謎解きが始まる。さらにそこに非現実的なトリックが絡んでくる。連続殺人事件ともなれば、それが2重3重に絡まりあってくる。いかにも「死」が軽く扱われている。
そう簡単に人間は「死」を選択できるものではない。自分の「死」にしろ、他人の「死」にしろ、「死」を目の前にして、何とかして「死」を避けることはできないかと悩みに悩む。その苦しみが文学を生み出すエネルギーになる。それがないものは文学ではない。
 ではミステリー小説は何か。娯楽か。「死」をもてあそぶ娯楽があるだろうか。では、何か?よくわからないからミステリーなのかもしれない。

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