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コミュニティっていう形のないもの、伝えるのはいつも困難だね。

9年勤めた会社を退職し、フリーランス&ラジオパーソナリティーに挑戦を始めた今年。

ともすると日々のアウトプットに必死になって、インプット不足になってしまわないかな?
そんなことを考えて参加したのが「コミュニティのカレッジ」です。

「コミュニティで生きる人の対話の場」と銘打ち、誰かの正解やノウハウを学ぶのではなく参加者同士がフラットな立場で意見や想いを交換し合っています(とはいえまだ限られた機会しか参加できていないのですが……)。

その中で「私とコミュニティと」というテーマでリレー形式でnoteを書く、アドベントカレンダーという企画が立ち上がったので、筆を取らせてもらいました。

メンバーさんによって色んな切り口があると思いますが、せっかくなので僕はラジオパーソナリティーっぽく、音楽を絡めてコミュニティに対する考えを綴ってみようかと思います。

Mr.Children「名もなき詩」。

僕にとってのコミュニティ観のエッセンスは、全てこの曲の歌詞に含まれています。

それでは歌詞になぞらえて、僕の持論を語らせてくださいね。

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気がつけばそこにあるもの

ミスチルの歌詞のパンチライン10選なんてものがあるとしたら、必ず上位にランクインしてくるであろう名フレーズ(当社調べ)。

この言葉を借りるなら、僕はコミュニティはきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるものだと思っています。

近年コミュニティの界隈は盛り上がりを見せていて、コミュニティをマネージメントする人、デザインする人、ビルドする人……様々な機能や役割が可視化されるようになってきました。

とはいえコミュニティって、意図してどうにかするものでなくとも、これまでだって沢山身の回りにありますよね。

住んでいる地域、会社、学校。家族だってコミュニティと言えるかもしれないし、日本という国、もしかしたら地球だってコミュニティと言ってもいいかもしれない。

コミュニティの定義なんてものは千差万別で各人の好みもあると思いますが、個人的には頑張って所属しようとしなくても、ふっと意識したときに繋がっている感覚がある状態が一番美しいカタチなんじゃないかなあ、と思っています。

そんなことを書いていたら、最近あった嬉しかったことを思い出しました。

2020年の5月、コロナ禍による緊急事態宣言で家から外に出られなかった日々を覚えていますか?

あの時、僕たちは旅好きの有志メンバーで「リモートトラベル 〜旅するように家で過ごそう〜」という30日間連続オンラインイベントを開催しました。

「宿泊施設に対して何かできることはないか?」
「もしかしたら多くの人の中の『旅したい欲』も高まっているのではないか?」
「おうちにいながらも旅ができないか」

そんな想いから、毎日どこかのゲストハウスや拠点とZoomで接続。
まるでシルクロードを進むキャラバンが膨れ上がっていくように、イベント参加者のFacebookグループは300人を超えました。

あれから2年が経って、いくらか移動もしやすくなった最近では、このFacebookグループが活発に動いているというわけではありません。

でもある時思い出したかのように、「あの夜にオンラインで知り合った〇〇さんと一緒にプロジェクトを立ち上げました」とか、「〇〇さんと2年越しにリアルでお会い出来ました」というお知らせが届くんです。

僕自身も11月に、当時出演してくださった金沢のゲストハウスに初めて宿泊することが出来ました。
オーナーの方に直接御礼をお伝えしたり、当時ずっと金沢から参加してくれていた方と一緒にご飯を食べたり。

Facebookグループが稼働していなくても、あの時同じ夜を語り明かした仲間が、今も世界のどこかで時に袖擦り合いながら旅をしている。
それを感じるたび、僕は勝手に、このリモートトラベルはコミュニティだと思わずにはいられないのです。

地元の昔馴染み、卒業してしまったクラスメイト、イベントで一瞬だけど意気投合したSNSの友人……。
別に普段から頻繁に連絡を取り合うわけでもないけど、なんとなく心の支えになってたり、会えば気兼ねなく心を開けるような。そんな繋がり、あなたにもありませんか?

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら 誰だってそう、僕だってそうなんだ

あるコミュニティに居続けると、その人なりの「キャラ」みたいなものが固まりがちだと思います。

その「キャラ」や周囲から求められるものと、自分の意志や感情に乖離が生じ始めると、人は「居心地の悪さ」を感じ始めるのだと思います。

家庭や会社とは別のいわゆるサードプレイス的なコミュニティを選んで入ってみることは、その「キャラ」を壊して自分らしく振る舞うチャンスを取り戻すことだと言えるでしょう。

とはいえ、「自分らしさ」って一体なんなんでしょうね?

自分で思った通りにやったことが「あなたらしくないよ」なんて言われたり、逆にしっくりきてないことが「あなたらしいね」なんて評価されたり。

例えば僕なんかは、「真面目で堅実」と言われることもあれば「意外と適当でいい加減」と言われることもあり。
「論理的だね」と評価してもらえることもあれば、「気持ちに寄り添ってくれる」と褒められることもある。

その両端が関わる人や場所によって良いギャップにも悪いギャップにもなって、「どっちやねん!」と叫びたくなったり「どっちもだよなぁ」と匙を投げてみたり。

あるがままの心で生きようと願うから 人はまた傷ついていく

その時々で意図したりしなかったりしながら、人は様々なコミュニティの一員となって生活をしていきます。

コミュニティに生きるとはそうやってもがいたり傷ついたりしていくことなのかもしれませんが、「誰だってそう、僕だってそうなんだ」と思えば、ちょっとだけ気持ちが軽くなったり、隣人のことが愛おしく感じられるかもしれませんね。

「コミュニティ」というテーマに心惹かれる人は、もしかしたらそういう生きる上でのささやかな痛みやモヤモヤに、少しだけ敏感な人なのかもしれません。

愛情っていう形のないもの 伝えるのはいつも困難だね

この曲の歌詞における「愛(情)」が「コミュニティ」に置き換えられるのは、どちらも「人と人とのあいだにおいて成り立つもの」だからではないでしょうか。

曖昧であやふやで、人によって感じ方も表し方も違う。正解のないものだけど、元を辿れば「目の前のあなたとどう向き合うか」。

1対1の関係をどこまで大事に出来るかが、とっても大切なことなんだと思います。

クドクドと回り道をしながら至極当たり前のことしか言っていない気もしますが……

「探してたものはこんなシンプルなものだったんだ」というのが、結局真理なのかもしれませんね。

さて、最後まで読んでくれたあなたとって、コミュニティとは?


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