ダーツのプロの世界に飛び込む話 vol.2

前回私がプロを目指すことになったきっかけを書かせていただきました。
※下記vol.1を読んでくれた方、ありがとうございます。

プロ試験を受けるために最低限の実力を身につけたであろう私がこれからどの団体を選ぶのか!?そこではどういう試練が待っているのか!?果たして通用するのか!?みたいな内容を書かせていただきました。それではどうぞ。


ここから私はプロについてより強く意識を持つことになります。
目標に必要な最低限の準備は整いました。

この時のプロと言えばPERFECTかD-CROWNという2団体のいずれかという選択肢でした。最近始められた方はD-CROWNという団体には聞き覚えがないかもしれませんね。
※今D-CROWNはPERFECTに吸収?統一された団体となっています。
個人的な印象ですが、当時のD-CROWNは選ばれし猛者が集うトップオブトップの団体。いぶし銀感のある選手やとにかくとがっている選手が多いけどそれがかっこいいと思えるほどでした。
というのも私のバイブルだったburn.という大会に出場されている選手が数多く在籍してしのぎを削っていたからです。使用されていたD-1というマシンの派手さはないもののクラシカルな音が魅力でした。
一方PERFECTは派手な音と演出のある、いわゆる魅せるというほうの印象が強いイメージがありました。TON80が出た時のあの戦車の音、ほんとうにうるさいですよね←
ユニフォームはこの頃からカラフルになっていった印象です。
もちろんここで常に上位を張っていた星野さんや江口さんといったスタープレイヤー達の試合に毎回心躍らされていました。
どちらのプロを選択するか迷いながら少し経ったある日。
衝撃のニュースを知ることになりました。

あのDARTSLIVEが新しいプロ団体【JAPAN】を設立

これはもう本当に衝撃的でした。我歓喜。
ダーツを始めてずっと慣れ親しんできたDARTSLIVEですが、DATSLIVE.TVなどで注目選手のドリームマッチなどは行われていたものの、プロの団体がなかったことにずっと疑問を持っていました。

私は一切の迷いなくJAPANへの参戦を決意します。

PERFECTに途中参戦するより、JAPANで団体設立とともに自分もデビューすれば周りもみんな1年生だから幾分気持ちが楽だったというのもあります。
そしてあのDARTSLIVEが設立するプロ団体ということもあって初年度はフジテレビの協賛がありました。大きな大会スポンサーがいる上に大会賞金総額は1億円と夢を追いかけてきた私にとっては魅力的な文言が並びます。
ここで有名になれればプロとしての生計をたてられるかもしれない。
この当時は期待に胸を膨らませておりました。


仏門をこなしている時に色々な方にプロとしての収入の話を聞いたことがありました。
あの時のダーツハイブ神田小川町はスポンサープレイヤーの練習の巣窟だったので異常なレベルの高さだったのを覚えています。

主に得られる収入は3つ。「大会賞金」「スポンサー費用」「イベント費用」となります。
大会賞金は読んで字のごとく勝つことでもらえるお金、スポンサー費用は強くて注目される選手が試合に出るために支給されるお金、または広告宣伝費としての報酬、イベント費用は実力人気のある選手がお店にゲストとして呼ばれていただくお金。
お話をしてくれた先輩プロ達は間違いなくダーツプロとして生計を立てている方達で、年収で言えば数千万と聞きました。
当時インフルエンサーという言葉はなかったので、完全実力主義の色が濃かったように思います。
実力を示すことが収入を得られる最短であることを聞きました。
スポンサーの大事さを色んなトッププロ目線から話していただきました。
プロの舞台に立つだけではご飯は食べていけません。
ここで稼げるようになって一人前になりたい。
稼げるようになって好きなダーツで生活していきたい。
想いと期待ばかりが先行していきます。

この当時、スポンサーがつくということは今よりもはるかに難易度が高かったように思います。
今よりもさらにマイナーな競技でありアングラ感の強いダーツ市場はとても小さかったからだと勝手に思っています。
その小さい市場でもスポンサーを背負って最前線で戦っている人たちの途方もない練習量と実力、覚悟を間近で見続け、自分がSAに辿り着いたからこそそれを維持し続ける難しさを痛感していました。

それでもそこには夢がありました。
ダーツを多くの人に広めたいといった大層な目標などありません。
プロとして続けていくためには自分で稼げるようにならなければいけない。
その為の挑戦が始まります。


プロツアーをまわるために必要なことが3つあると思っています。
「資格」「資金」「日程確保」です。
資格がないとエントリーできませんし、資金がないとツアーで全国を周れません。日程が確保できなければ試合に出ることも叶わないでしょう。
当たり前のことですがこの当たり前を全てクリアにするのがプロの最初の試練といっても過言ではありません。(副業ダーツプロという立場の私はこれが今でもきついっす

まずは「資格」を取りに行きます。
取りに行くといってもJAPANは店舗受験タイプの試験なので、割とどこでもいつでも受けることができます。
他団体からの移籍選手は実技試験を免除されるのですが、新たにJAPANに挑戦する選手は非常に難易度の高い試験に合格する必要があります。

当時まだ01のスタッツが115~116くらいで、クリケットのスタッツが4.7くらいだったので、実力以上の数字を打たなければ合格することができません。頼む。調子のいい俺こい。と願いながらの挑戦となります。

当時は実技試験受験者が「毎日」複数名~多い時には10名以上いました。
挑戦するたびに100円~200円を投入し、駄目なら再トライをしていくのですが、それがその人の受験費用となります。そこに回数制限はありません。
出来ないなら出来るまでやり続けることができます。
私が受験したお店では、お店にある4台のマシンのうち、2台を試験台として開放してくれました。
いくらかかるかわからないのでとりあえず受験用に1,000円を両替し、自分の順番を待ちます。(お金ない学生だったので一気に何千円も両替をするのには抵抗がありましたもので…)
いくら回数制限が無いといっても試験は常に緊張感が漂います。
みんな真剣です。
同じ受験者に見られながら合格ラインのダーツを披露するのは緊張もあれば続々と合格に達する他の受験者をみて焦りも生じます。
誰が最初に全ての項目をクリアするのか…現場では隠れた競争意識が見え隠れします。
私でありたい!!
最初にクリアしなければならないシュートアウトは1R目を盛大にミスり、1本目から気持ち良く20をぶち抜き、その焦りから2本目は18をぶち抜く荒業を披露しました。その後も2を狙えば17に入り、3を狙えば19を打ち抜いていきます。ことごとくハイナンバーを潰していき自らの首を絞めていきます。それ今じゃないんよな。もちろん5,000点行くか行かないかで不合格でした。
2回目のトライは特に面白みもなかったと思うのですが、ハイナンバーの打ち抜きをなんとか封印し、ビビッてトリプルではなくシングル寄りを狙うという綱渡り状態を何とか乗り切り、確か6,000点弱くらいで合格した記憶があります。
このシュートアウトをクリアすると幾分気持ちが楽になると同時にここからが本番だ!という気持ちになります。シュートアウトも本番なんですけどね。
次の試験では、01とクリカンの試験で好きなほうに挑戦できるのですが、個人的には01のほうが難易度低いと思って先に01に挑戦することにしました。
というのもセパレート701とはいえアウトボードさえしなければ全て有効打だから厳密にいえば60を外してもミスではないとポジティブ思考がいかんなく発揮されます。
01は一回200円の受験料がかかるのでここでのつまづきが出費に大きく影響するためかつてなく真剣に投げます。
24点や45点を出してしまっても140や180が一回でるだけで心に余裕が生まれます。とにかくポジティブに。
結果は3回トライして2回の成功し安堵しますが、01の試験については試験の特性上複数名同時受験ができないため、受かっても受からなくても何回かトライしたら順番を譲る必要がありました。
次のクリカンの試験に向けて一気に終わらせたいと思うものの順番は守らなければなりません。
連続で投げてどんどん気持ちがハイになって…という方法を取ることができませんでした。
そんな中あとクリカン1回で合格となったトライですが、一向に合格ラインに達することができません。
最後の1回の合格に10回以上かかることになりました。
緊張と疲れで足がつってしまっていたのですが、思い返せばそのおかげで余計な雑念が消え無心で投げれたことが良い結果に結びついてくれたのだと思います。どういうこと。

2012年2月のこと。ようやく夢にトライする資格を手に入れた瞬間でした。


JAPANには私が勝手に天竜人と呼んでいる前回大会の上位16人(レディースは8人)がいます。
この人たちは大会で出演料を獲得し、次大会の予選を免除され、さらには専用の控室が用意されるというまさに至れり尽くせりの扱いを受けます。
※コロナ禍となってからは若干異なっています。
コロナ禍以前では、開会式では檀上に上がり大型モニターで一人ずつ紹介をしてもらえます。
「それでは前回大会のTOP16の選手をご紹介します!〇〇大会TOP16!〇〇プロ!!」
パチパチパチパチ
「続いて同じくTOP16….」

「そして〇〇大会優勝!!〇〇プロー!!」
ひときわ大きな拍手が会場内に響き渡ります。
この壇上に呼ばれて立つだけで「あ、あの人入賞したんだ。すごいな。」といった感じで全ての選手、観客に認知してもらえるのでこれはとても大きな宣伝効果を持ちます。

2017年のゲームオン

一通り開会式が済むと、ドロー抽選などこまごまイベントを終え降壇します。
その後は他の人が予選を行っている間に会場で一番目立つステージ台でエキシビジョンマッチを行いながらファンにプレーをお披露目します。
入れ替え戦抽選会では改めて壇上に上がり注目を集めます。
閉会式では新たに誕生したJAPAN16選手の紹介や写真撮影が行われます。
もうとにかくめちゃくちゃ注目してもらえますし待遇が全く異なります。
正に天竜人なのです。

初年度は全員フラットの状態から始まるのかなと思ったのですが、JAPAN16選考会たる大会が開催されることを知りました(正式名称忘れました)。この選考会が私のプロとしてのデビュー戦となりました。
この試合はフジテレビの中で行われ、普通のビッグトーナメントとは違うJAPANの本気度を感じる瞬間となりました。

大会前日はギリギリまで練習し会場入りをはたしますが、右見ても左見ても有名プロのオンパレード。
ミーハーな私は「あ!〇〇プロ!あ!〇〇さん!あ!…」もう別の意味で興奮が止まりません。
試合会場は若干薄暗くその雰囲気に選手たちの会話も若干少ないように感じました。
床はカーペットのため足音などの雑音は少なく、ダーツの矢が盤面に着弾する乾いた音が歯切れよくタンッ!タンッ!と響きます。
プロ資格を取得して初めての試合でしたので、ウォーミングアップのペースもルーティーンも全く定まっていません。
自分の投げ方で確認したいところもわからず、とにかく早く調子上がってくれとがむしゃらに練習をするだけでした。
デビュー戦は何をやっても緊張が止まらず足はガクガク、腕はプルプル震え、心臓はかつてないほど激しく鼓動します。
この日のために準備してきた投げ方や気合いなんてものはどこかに消え去っていました。
なんでもいいから入れ!その願いだけで乗り切ります。
初戦は4勝+8という好成績を収め、この成績に同じく大会に参加して私を知っている人たちはとても驚いくれたのを覚えています。
しかしながら決勝トーナメント2回戦でサクッと敗戦。
負けた悔しさよりもこれまで画面の中でしか見てこなかったトッププロ達と同じ空間に立ち、これから戦っていくんだという高揚と、予選を高順位で抜けれたことで自分は通用すると満足していた自分がいました。
たまたま今回は自分の番ではなかったのだと。
この意識が自分を長年苦しめることになります。

ここから残り2つの「資金」と「日程調整」について格闘の日々が始まります。

2012年に正式にツアーが開始となり、この年初めてダーツのユニフォームたるものを着用しました。
この時は勤めていたダーツハイブのロゴのみを背負います。

先輩スタッフや有名プレイヤーも掲載していたダーツハイブのロゴを背負うということは非常に誇らしく思えました。
開幕戦はDiv2のベスト64にて敗戦という結果も、自分の中では確かな手ごたえと次戦に向けての自信につなげていました。
この後も年間通して全国で試合が行われていきますが、私が参加したのはほんの数試合でした。
学生バイトだった私は、エントリーの15,000円に加えて旅費などを捻出できる財力はなく、スポット参戦が限界という初年度となりました。
夢を追うにも金が要るのです。


この年に限らずですが私はこの当時様々なビッグトーナメントやリーグやハウストーナメントに積極的に参加していました。
もちろん人に誘われたりその情報を見つけては自発的にエントリーするなどをしてJAPANに生かすべく出られそうなところには片っ端から出ていました。
しかしこれが本当に正しかったのかはわかりません。
この行動には大きな矛盾がありました。
試合に出るためにためなければいけない資金をそちらに流用していたのです。
関東から全国を周るとなった場合、18試合にかかる費用を計算してみましょう。
・施設利用料:1万5千円×18試合=27万円
・旅費:平均して3万円×18試合=54万円
※高いところで5万円かかったり、関東で行われれば数千円で済みますが、ざっとならして見積もってこれくらいですね。
・当日会場での飲食費:5千円×18試合=9万円
※会場の飲食は割高ですがこれは大切な大会運営費に充てられますので、誰であろうと会場内に飲食物の持ち込みはしてはいけません!
・ツアーなどには含まれない会場までの移動費など:3千円×18試合=5万4千円
※試合会場外でのお付き合いなどでの飲食の出費は除きます。
上手にツアーなどを取ったり節約できるところをもっと削れば多少は変動あるかと思いますが、おおよそ100万円前後が必要経費となります。

こんなにお金がかかるのに他で使う余裕なんて本来ないはずなのですが、1万円ほどの出費で収まるハウスやビッグトーナメントにはスッと出てしまうんですよね。
こんなことを繰り返していた私は簡単に資金不足に陥り、JAPANの出場機会を逃していくことになりました。

すこしネガティブな思考になってしまいましたが、この行動が全て間違いだったとは思いません。
良い経験だったというのは少し単純ですが、まずはセルフプロデュースしていくことも重要だと思っていました。
試合で圧倒的な強さを見せつけそこに長い間君臨できるのであれば、それに越したことはないと思うのですが、まだそこに至ることが難しいと思ったので、まずは自分がどういう選手でどういったパフォーマンスを見せることができるか、他人と違って自分には何ができるかをとにかくPRし続けました。
PRといってもとにかく顔を売り、活動できる範囲内で多くの人に認識してもらうことに留まった活動となってしまいますが。でもとても大事なことだと思いました。

このような活動を続けているときに「何故お前はそれだけの実力があるのに試合に出ないのか」と当時同僚だった津村さん(以後ともやくん)に強く説教をされたことがありました。
本来ここからは書くべきではなく心に留めておくべきだと思うのですが、すべてが順風満帆ではないことを赤裸々に書いてしまおうと思います。

当時はダーツショップでバイトをしていましたが、時給で働く私はつまりフリーターです。
ダーツに関わる仕事をしていましたが、これはプロとしての収入にはカウントされません。ただのアルバイトです。
そんなアルバイトで都内で一人暮らしをし、日々の食費や家賃、光熱費を払って生きていくので精一杯でした。そこにダーツの練習費用の捻出が追い打ちをかけます。
試合に出場すればその時間稼げたはずの収入が無くなり、むしろ出費ばかりで生活がより困窮します。
金がない時間がないという理由で答えるしかありませんでしたが、試合に出なければこれまでやってきたことも意味を成しません。ただのその地域でダーツがちょっと上手なお山の大将です。そんなことはわかってる!!わかっているんだけども…。
金がないなら貯めろよと言われても生きていくので精一杯なのでだんだんと心も腐っていきます。
試合に出られる人はスポンサーもついてて楽に回れるからいいよねと捻くれた考えを持ってしまっていた時期もありました。本当に良くないぞ過去の私。。
「スポンサーがついてくれたら全戦回れるのに。商品をアピールします。必ず勝って貢献します。なんの具体性もないんですが有名な人達と同じ扱いをしてください。そうなれるように頑張ります。でもそれはすぐにはできないので苦しいこの現状を努力しないで乗り切らせてください。助けてください。」という浅はかな考えでは誰も振り向いてくれる人はいませんでした。
そのような浅はかな考えを見抜き、口だけは一丁前に動かしながらも行動に示さない私に強い口調で説教をし、私が泣いても辞めず最終的には二人して泣いてしまうというカオスが生まれたあの金町での夜の出来事は強く心に残っています。ここまで怒ってくれた人もいなかったですし、この当時まだ初年度なのに腐りかけていた性根を叩き直してくれた。正論は時に毒にもなりますがこの毒は私を変えてくれました。今となればとにかく感謝しかありません。

この日から劇的に環境が改善されたわけではありませんが、意識に大きな変化があったと思います。前作含めてこれまで記述した苦労というのはプロ選手なら誰しもが通ってきている道です。(あそこまで下手だった奴がプロになるのは割と珍しいと思いますが。)
自分だけが苦しい、努力が報われない。煌びやかなプロとしての生活にばかり焦点があっていた私は、その方たちの土台を知ることをしていませんでした。

しかしながら気持ちだけでは試合を全て追うことは叶わず、2014年は6試合、2015年は10試合、2016年は7試合の参戦が精一杯でした。
これだけ参加しても1度も入れ替え戦に進むことはできません。勝てば入れ替え戦という試合を何度も経験しますが、ことごとく叩きのめされます。
入れ替え戦以前に高いDiv.2突破という壁を打ち破ることができないまま月日は流れます。


少し時は遡ります。2012年か2013年前後だったでしょうか。
プロになって間もない頃。メーカー主催の大きなハウストーナメントが開かれるという情報を耳にしました。
「G'sカップ」と言われる大会です。


G'sDartsの契約選手がゲストとして一堂に会する大会で、そこにはメーカー社員さんや社長の姿もありました。
この時試合の空き時間に人づてで社長とお話させていただく機会がありました。その場では社長と副社長、元バレルデザイナーさんとともや君と私の5名がいました。
ともや君が社長たちに「こいつめっちゃ強くてやる気もあるからサポートしてやってほしい」と、私を強く推薦してくれました。すると社長が「この人に勝ったらいいよ」と元バレルデザイナーの方を指名します。
こんな形でスポンサー獲得のチャンスが巡ってくるのか!と急に緊張します。会場の注目を浴びながら3Legマッチを行いましたが、結果から言うと私は負けました。
負けてしまったのです。
1度きりのチャンスをものにできなかったものの、悪い試合ではなかったので声がかかるかもしれないという淡い期待もありましたが、そこまで甘くはありませんでした。条件を満たせなかった私にその日声がかかることはありませんでした。

それから2013年に進むと私は現在の会社に就職します。
規則によりあまり細かく語ることはできませんが、新卒初任給でツアー代をやりくりするには限界があります。
まだ光を見ることはできませんでした。


時は進み2014年シーズン。
このシーズンはソフトダーツだけではなくスティールダーツにも挑戦していました。私の参加してしたTDOにおいてPDJ出場をかけたTDO選抜戦にも参加できるようになっていました。
JAPANでは奮わなかった私ですが、スティールダーツのほうで徐々に活動の幅を広げていきます。

この頃G'sのバレルデザイナーとして活動されていた落合さんという方がいます。私と同い年ということもありますし、大学生のころからの知人友人でもありました。この方はあらゆる大会会場でスポンサー選手の試合を見て癖や調子を把握してバレルデザインに落とし込んだり、新たな契約選手の発掘のために注目選手の試合を現地で選手を観察するスカウティングのようなことをこなす業務を行っておりました。

2014年シーズン一度も入れ替え戦を戦うことはできませんでしたが、とある日声がかかります。「一緒に頑張らないか」と。

後に聞いたことですがもちろん試合で結果を出しているに越したことはありませんが、試合に取り組む姿勢、投げ方、飛びなどで何か感じるものがあったそうです。

実はこれまで何社かからお声がけいただくことがありました。どれも魅力的な提案でその都度心は揺らぎましたが、「一緒に」という選手と企業は対等であると明言してくれたのはG'sDartsだけでした。
前にセレクションのようなもので条件を満たせなかった私ですが、あの時の出会いからずっと私を見てくれていました。
私はG'sDartsと契約することを選びました。

それから物品支給だけではなく、個人としてさらなる高みを目指せるようにオリジナルバレルの製作などが始まります。ここでは話がさらに長くなってしまうのでこの過程は割愛させていただきます。


G’sがスポンサーがついて1年。JAPANに参戦して5年が経過しました。
私はまだ勝てないでいました。
なぜ勝てないのかは明確にはわかりません。自信はありましたが勝てないのです。
期待を持っていただきながらも結果の伴わない上にこれまで獲得した出演料は0円。資格を有したときに夢を見ていたプロとしてやっていくという希望と自信は全くと言っていいほど失われていました。

プロとしての生活に期待と希望を持っていたあの日の自分はもういません。
私はある決断をします。
2017年シーズンはとにかくお金を貯めて2018年に最初で最後の本気のトライをする。これで結果が出なかったらプロを辞めよう。

続く

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