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「空気」に征服される日本人

普段はもったいないと思って外食に出かけることは少ないが、ラーメン屋さんとか、パン屋さんにはよく行く。

単純に好きというのもあるし、思いがけず訪ねても単価が知れてて財布への罪悪感がないからついつい近所のお店をハシゴしちゃう。

ある日、近所に新しくできたラーメン屋をみつけて、どんな感じかな~とネットのレビューを見ていると、こんなコメントに出会った。

(前略)
水はセルフみたいだけど、どこにあるか分からなかったので、かなり喉が渇いた。
案内の紙でも貼り付けるか、口頭で案内もしくは最初から水を出してほしかった。
聞けよ、って言われそうだけど他に客がいなくてシーンとした雰囲気だったから聞きづらかった。
初めたばかりのお店だから接客が悪いのはご愛嬌。
・・・
(後略)

「聞けよ。」

で終わる話ですが、まあまあ、もし自分が同じ状況に立たされた場合を想像すると、こう考える若者もいそうだな、と思っちゃう。

でも大半の人は「店員に聞けよ。」って思うはず。
お店側も、こんなことで接客が悪いと思われたらたまったもんじゃない。接客云々の話じゃないもんね。

こんなことを取り上げて、別にこの人を責めたいわけではない。
むしろ、この人がこのような感覚になる原因がこの時代にあるのではないかと、恐ろしく感じているのである。


日本語はハイコンテクストな言語であると言われている。ハイコンテクストとは、簡単に言うと文化や価値観などが近い集団ゆえに多くを語らずともお互い意志疎通できる状況のことである。

元来日本はかなりハイコンテクストの文化であり、暗に意味を込めた言い回しとか、間接的な表現を好む文化で、暗黙の了解みたいなものが生活上のそこかしこに存在している。

そしてそれが存続するのは、歴史的にも移民が少ない国家で国民全体が均質化・同質化されていることもあり、”暗黙の了解”が人々の間で語られずに暗黙で在り続けられたゆえなのではないか、と思っている。

子どものころからそのような文化にさらされているゆえに、どこにいても暗黙の了解、いわばその場の「空気」がすでに存在しているのだと思い込んでしまい、その場の「空気」を読むことがもはや義務のような感覚に陥っているのではないか。
少なくとも私は「郷に入っては郷に従う」のごとく、郷の空気を読んだうえで行動を選んでしまっている時がある。

先ほどのレビューを書いた人も、その場の「空気」を読んだ結果、シーンとした雰囲気=発言がしにくいと感じ、水を下さいと聞くことができなかったのかもしれない。知らんけど。

そうはいっても、シーンとした雰囲気=発言しにくい空気、ではない。
その空気はその若者自身が勝手に作り、勝手に読んだ空気だ。接客は何ら悪くない。


誰が作るでもない、自分がその場にあると思い込んだ「空気」によって、自分を自分で生きづらくするするなんて、ばかばかしい。

でも実際は、少し思い当たる節があったりしませんか。だらだら続くオンライン飲み会から抜けたいけど抜けづらい、みたいなこと。抜ければいいのにね。

そういう人は、一回アメリカに行けばいいんじゃないかと思ってます。(適当)

思っていることは言葉で伝えないと相手には伝わらない、そんな当然のことを私は海外に行ったときに改めて思い知らされた。

アメリカのSubwayでサンドイッチのメニューを選んで、「トッピングは全部普通で」って言ったのに(英語しゃべりたくないから)、どいつもこいつも、トッピング1つ1つに「これはいる?」って聞いてくる。「普通」は伝わらないのよやっぱり。

ぜひアメリカに行った際には、Subwayでサンドイッチのオーダーカウンターを観察してみてください。
ただ、英語苦手な方は注文するなら覚悟しておいたほうがいい。私はアメリカ初日に注文がうまくできなくてうんうん言ってたら、全然アメリカっぽくない野菜ばっかりのサンドイッチが出てきた。あんまり味しなかった。(ヘッダーの写真)

大変お粗末さまでした。


サポートいただいても自分ではうまく活用できなさそうなので、もしいただいたら東日本大震災等の災害ボランティア活動団体に寄付させていただきます◎