始めまして!自己紹介します!
こんちわ!
前々から始めたいと思っていたnoteを始めるにあたり、いいきっかけをもらったのでここに書き始めます。
飲食店の経営を約8年。これから新しいステージへ進む自分に記録を残し進化の確認をすると共に、ご覧頂く方々に為に少しでも為になる事が書ければと思ってます。
最初は自己紹介がてら自分がどんな奴かっていう生い立ちをプチ小説風に書いてみます。
ちょっと長いですがお付き合いくださいーm(__)m
生まれ&幼少期
新潟県長岡市あたりに生まれ、地元の鉄工所に勤務する両親の次男(長男との二人兄弟)に生まれる。
父は亭主関白、母は穏やかな優しい人。仕事一筋の父、それ以外はほぼすべて母、という昭和を象徴する家庭で育つ。
父は工場勤めの職人。週末はメカいじりの趣味に明け暮れる人。
母は何が趣味なんだろう?いつも子育てに奮闘している感じでした。
幼いころは父の仕事が気になったのでよく母に父の仕事の事を聞いてました。
母は自慢そうな口調で、「お父さんは誰にでも簡単にはできない仕事ばかりやっているの。本当にすごい人なのよ。たまには海外にも呼ばれて仕事してたりして人気者なのよ。」
母も父の仕事を誇りに思っていたようです。
人気者の父は仲間もいっぱいいたようで、平日週末構わず、知人が良く遊びに来てはいつもお酒を飲んで楽しそうに話してました。
当時小学生だった自分は、将来自分もお酒が楽しく飲める人間になろう!と思ってました。
父親の独立→苦悩の日々
そんな両親が自分が中学生の時に小さな町工場の経営を始めます。
父は25年ほどサラリーマンで勤続してからの独立でした。
起業などよくわかっていなかった自分ですが、今までの会社員の状況とは大きな変化を経験することになります。
父は仕事で忙しくほとんど家に帰ってきません。
母も帰ってくるものの、すぐ仕事に戻ってしまったり、ご飯も作り置きが置いてあったり。
兄も高校生だったので、バイトしたりして帰ってくるのも遅い。
自分は鍵っ子で育ち、一人でご飯食べたりするような生活になりました。
このころから家庭環境がギクシャクし始めます。
どうやら最初から仕事はそんなにうまくいっておらず、仕事は来るが儲けがでない、売上が入金されない、仕事先からは裏切られ受注がストップ、従業員が突然辞める、などなど度重なる問題があったようで、仕事も家庭も大変なことになってました。
たまには家族が揃ったりしても、いつも両親は喧嘩。自分や兄が止めても父はいうことを聞かずすぐに怒鳴りちらし殴り物は壊し、家は悲惨な状況でした。
母はほとんど文句は言わず、ぐっとこらえているように感じました。
そんな母を見ていて、いつかはこの人を自分が助けないといけないと思い始めました。
こんな殺伐とした期間が2-3年は続いたと思います。
高校生活
高校進学の時には、家から通いやすい県立高校の普通科に進学します。
兄が私立高校に行って楽しそうだったので自分も私立に行きたかったのですが、学費が高いことで断念しました。
入学当初からあまり精神的にはいい状況ではなかったので、高校では何回か停学をくらうこともありました。ちょっとした不良学生ですね…。
のちにバンド組むのですが(ドラマー)、父親が練習小屋を自分の工場の敷地内に作ってくれて練習をしてました。このころからは両親に対して感謝の気持ちが芽生えていたと思います。ただ仕事は忙しいままで、父に関しては365日1日も休まずに働いていました。自分で経営するということはそこまで必死にやらないといけないのか?と疑問に思いながら父に質問したことがあります。
「1日も仕事休めないほど仕事があるの?そんなに仕事して体大丈夫なの?」
「仕事がたくさんあることはとても嬉しいことなんだ。仕事が無くて困っている人もいるんだぞ。頼られることって素晴らしいしそれに答えたい。それでお金がもらえたら最高じゃないか。それに父さんはこの仕事が好きだからこれだけできるんだよ。全然苦でもなんでもないよ。」
すげーなこの親父と思い、きっとこの親父は越えられないなとも思い始めました。
なんとか高校を卒業し、父の会社を継ぐ為の勉強として新潟市内の工業系の職業訓練校に進学します。
県立だったので学費がめちゃくちゃ安い(たしか年間15万ぐらい!)のも決め手でした。
専門学校→就職からの転換期
正直この学校の思い出はありません。はっきりいってつまらなかったです。
生徒のみんなまじめすぎて面白くない。
実務も親父から教えてもらった事ばかりで、専門学校って意外とこんなもんなのかと。
自分がいうのもなんですが、学校って何?と思いました。
思い出ってほとんどない…。夜遊び覚えた事ぐらいかなー?
卒業後地元に帰り、修行として別の工場に就職します。
しかしこれもなんだか面白くない。
同僚や先輩と話していても、夢とか希望みたいなものはあまりなく(自分もそんなにありませんでしたが…)、当時の自分からしてみたら技術も何にも吸収するものがなさそうだなと思ってしまいました。(生意気!)
というより、そもそもこの工場仕事がつまらない。
俺って何がしたいんだろう?と。
偶然ではありますが、ほぼ時を同じくして東京にいる兄が地元に帰るというのです。
自分は両親に仕事を辞め東京に行きたいということを話しました。
いわゆる憧れです。何をするかは何も決めてません。
すぐに東京での一人暮らしの準備を始めます。
自分が21歳の時の出来事です。
上京してからのフリーター生活
東京に来て最初は、地元から出てきていた友達を頼りに色々聞いて仕事を探し始めます。
東京でしかできない仕事がしたい!!思い様々面接を受けますがことごとく落ちまくりまして、ひとまず歌舞伎町で居酒屋やカラオケ店のキャッチのアルバイトをすることになります。
実はお客さんと話す仕事って一度もしたことがなく、サービス業が出来るようになりたいという漠然とした理由がありました。
後に繋がりますが、最初のバイト時代の社長とは今でも繋がってます。本当にありがたいことです。
ずいぶん破天荒な会社でしてたが、歌舞伎町のイロハをたくさん教えてもらい、東京で生活をしていく上での基礎を教わったと思います。
その後代官山のオシャレなダイニングバーで働いたりしましたが、東京にいるから出来る仕事がしてみたい!!という思いがぬぐい切れずテレビ番組制作会社のADで採用され働き始めます。24歳ぐらいの時です。
映像作品を撮ってみたいという気持ちと、自分が思いつく一番きつい仕事をやってみようというドMな気持ちと。そうすれば今後仕事をしていく上で乗り越えられない事ってあんまりなさそうだなと。このころは若いうちしかできない刺激を欲していたんだと思います。
案の定相当きつくて、1週間で合計8時間ぐらいしか寝れない日々も当たり前。番組制作にかかわるものとして1番低い身分として扱われ、先輩や関係者からは罵倒の日々。当時の彼女ともほとんど会えず、月に1回あるかの休日はただ寝て過ごす。こんな生活を約1年ぐらい続けて辞めました。本当に心底信念や野心のある人でないと難しいなと痛感した事を覚えてます。
社会人からの転落
この仕事から、定職に就かず何か目標も持たず彼女と付き合っているのも良くないなと思い始めていたころで、東京に来てから初めて正社員になろうと決意します。
フリーターで大した経験のない自分をどこが採用してくれるのだろうと思い、求人媒体を眺めていると、インターネットの広告営業が目に入ります。
社長はまだ20歳程、創業2年目、伸び盛りのベンチャー企業、10数名規模で頑張り次第で役職付与、未経験歓迎、給料高め(自分にとっては^_^)という条件が面白そうで応募してみます。結果見事に採用。
入ってみて分かったのですがバリバリの営業会社です。当時のネット業界では1、2を争う営業会社の最年少トップ営業の方が立ち上げた会社でした。
必然的に過酷な営業ノウハウを叩きつけられます。
歯科医院を紹介するポータイルサイトの広告販売の営業につきました。
一日中テレアポの嵐、契約とれるまでかえれま…、終電間際まで営業練習。そんな毎日でしたが、前職のAD時代より寝れたし怒られてもそんなに苦には感じませんでした。
しんどい経験しとくと、たまにはいい事あるんですね。
入社1年で係長、2年で課長、3年目で部長に昇進し、そのころには社員が100名をゆうに超える規模まで成長し上場まで目指すというところまで来ていました。
年収も同世代では比較的良い方だったと思いますし、エキサイティングで楽しかったです。
ただBtoCの営業が中心でBtoBも経験しもっと技術の専門的な業界で挑戦したいという思いが出てきて転職を決意します。
検索技術を販売する会社に法人営業という形で採用されます。
多少年収は落ちましたが経験になればと思っての転職です。
しかし全然前職の経験が生かされません。
知識を勉強してもあまりにも理解できなくて、営業成績が全然上がらない。
誰も教えてくれない、無言のプレッシャーだけが押し寄せてきます。
結果1年ぐらいで精神的に追い詰められ退職します。
これから自分は何をしたらよいんだろう…
やっと見つけた自分の道
そんな先が見えない中、自分にとって何が楽しかっただろうと考えていると、居酒屋で飲んでいる時を思い出すんです。
営業の仕事が終わると、よく行く居酒屋に行って名物社員さんから元気をもらい、歌舞伎町でバイトしている時も、背伸びをして和食屋に行き、素晴らしい接客と料理を堪能しによく通ってました。
得意かわからないけど、将来は飲食店をやりたいなと思ってはいたのです。
自分の未来へのプレッシャーの中、授業料を払って飲食のビジネススクールに通うことになります。
授業はより実践的で精神論や感覚論な授業が多かったと思います。自分のような素人では分からないような数字の話もありましたが、なぜその業態が流行るのか、また流行らないのか、時代の空気を読み形にするにはどうするかなど、今思えば自分の飲食業としての骨格を学ばせて頂きました。当時のスクールの方々とは公私共々仲良くさせてもらっております。
その後飲食人として働き始めます。28歳の時です。
このころ結婚を前提として付き合った彼女と約束をします。
「30歳になるまで独立してもっと稼げるようになれ!!」
その約束のもと転職を許可してもらいました。
結果として4年ほどかかったので怒られましたが…。
下積み時代のお店は飲食業を長年経験しているベテランの方々ばかりでプレッシャーの日々。
徐々に仕入れやメニュー開発、接客などを任せてもらえるようになり、料理のノウハウや心構えも教えてもらえるようになりました。
ここで「かげん」という事の大切さを学びます。
やりすぎとは?やらなすぎとは?、ちょうどよいとは?、ここちよいとは?、など適切な状況や考え方を体で覚えることが出来ました。これが自分の性格にもあっていたんだと思います。
今までの仕事とは違いにすんなり受け入れる事が出来て、目標通り飲食店をやりたいということが変わらなかったので。
入社3年目には付き合っていた彼女と結婚することになり、その後独立することになります。
独立と両親からの教え
場所は東京の下町、北千住。
当時の家から比較的近かった事、家賃が安かったこと、東京のターミナル駅で和食居酒屋の伸びしろがありそうなどが理由です。
正直縁も所縁もありません。前職で築き上げた人脈はあまり生かせないエリアではありました。今思えば前職の近くでやった方が苦労しなかったのではとも思います。
是屋(コレヤ)
時代に合わせ良いことをするお店。自分を戒めるような意味も込めました。
最初はほぼ一人で切り盛りし、あとは知人の方にたまに手伝ってもらったりしてもらい営業してました。
最初の2年ぐらいのほとんど売上がなく散々な日々が続きます。
仕事の事ばかりで家庭の事をほとんど顧みない、でも稼がなければいけない、でも売上の上がらない。なにをどうしていけば良いのかもわからない日々の繰り返し…。
その時、相談した両親から、
「人様の為になることをし続けて自分を信じあきらめなければいればいずれ報われる。」
「自分たちもそうしてきて今がある。そうしてかかわってきた人たちは、あなたをきっと助けてくれるから。自分が好きなことしているんだからそれだけでも感謝だと思わないと。」
この言葉は今でも身に染みて感じる商売の基礎となっており、両親が独立したときもこういう気持ちだったのかと思うと非常にいい体験だったと思います。
開業3年目ぐらいからは徐々にお客さんが入り始め、本当にありがたいことに軌道に乗ることができました。
法人化もし社員やアルバイトも雇うことができ、今後は次のお店の出店や他にも面白い事を考えてます。
これからは、自分に関わる人たちと楽しみを分かち合いながら、苦労も乗り越え、みんなで自己実現しながら、面白いことにチャレンジし続けていきます!!
そして、このnoteを始めるきっかけを与えてくれたでんちゃん&ファーストペンギンズの皆様ありがとうございます!!詳しくはまた後日!!
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