見出し画像

事件・災害を伝承するということ

もうすぐ11月17日がやってくる。

2004年のこの日、奈良市の小学校1年生、有山楓ちゃんが下校時に連れ去られ、命を失った。

ぼくは毎年この日に、奈良市教育委員会の依頼で講演をする。
「子ども安全の日の集い」と銘打たれ、毎年この日に市長や教育長をはじめ、教職員や保護者、地域の安全ボランティアの皆さん、およそ300人が集まって開催される、とても大切な日だ。

今年はやはり、残念ながらオンラインと会場のハイブリッドで開催される。
会場にいるのは市長をはじめとする重鎮と教育委員会だけで、教職員や一般のみなさんは画面の向こう側にいることになる。

まだ講演内容は思案中だが、要望としてはやはり「子供の命を守る」「防犯」がキーワードになるだろう。

その中で、ひとつのテーマとして設定しようかと考えているのが、「事件(災害)の伝承」ということだ。
このテーマについてはこの2年ぐらい、研究テーマのひとつとして取り組んでいて、論文にもしたし学会発表もした。
それでもまだ、時間が必要だし調査も再開したい。

この研究テーマは、学校教育を舞台にしたとき、「事件・災害の伝承」というタイトルの前に、もうひとつの重要なキーワードがつく。
それは「未体験教師による」という言葉だ。

この「未体験教師による事件・災害の伝承」という研究テーマは、いかなる事件や災害も時間が経過するとともに、「体験者」や「当事者」の言葉に依存することはできないという事実が元になる。
終戦、あるいは広島、長崎の原爆被害からまもなく77年。
阪神・淡路大震災から27年。
大阪教育大学付属池田小学校事件から21年。
東日本大震災から11年。
そして、楓ちゃんが犠牲になった事件から、今度の11月17日で18年が経つ。

この歳月の中で、語り続ける「当事者」もいれば、語ることをやめた、あるいは語らない当事者もいる。
「体験者」や「当事者」の言葉が伝承において有効かどうか、という課題も、ぼくの研究の中で表出している。

大切なのは、事件や災害で失われた命を教訓にし、今を生きる子供たちの命につなげていくことだ。

だから、教訓を探し、伝えていくという「伝承」が大切だと思う。

そして、伝承の役割を担っているのは教師だ。

もちろん、家庭で語り継がれていくことは大切だ。
しかし、あえて学校教育がその役割を担ってほしいと思う。
これは「教育」の大きな役割の一つだからだ。

だが、ここで「未体験」教師が語る上でのジレンマが生じる。

「体験していない自分などが語ってもいいのか」

このジレンマは、ぼくの体験による。
事件を「見ていない」自分が、何を語れるのか、というジレンマに苛まれていた日々。
それがこの研究の背景になっている。

次回、ぼくがどのようなジレンマを抱えていたのか。
また、いくつかの同じジレンマを抱えた教師の言葉を紹介していこう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?