個人的な愛国心 (日垣 隆)
日垣隆氏の本は、初めて読んだ「知的ストレッチ入門」に続いて2冊目です。
本書は「日刊ゲンダイ」や「北海道新聞」などの連載記事がもとになっているとのこと、日垣氏一流の厳しい攻め口で「時事問題」を抉っていきます。
こういった連載物は、種々のテーマごとに、限られたボリュームの中で “鋭く本質を突く主張”を開陳しなくてはなりません。日垣氏の筆のテンポは、これに見事にマッチしているようです。
たとえば、「公共」という概念について。
(p79より引用) 公共概念の正体は、明らかに権力である。もとより近代国家の憲法は、国民を制御するために制定されるのではない。日本国憲法も、権力諸機関に手かせ足かせを嵌めることを目的に制定された。
おっしゃるとおり、「公共」は市民側がもつpowerでしょう。
日垣氏は、「自分で判断すること」の範を自ら示し、それを広く薦めています。
現実の社会を見渡すと、あまりにも根拠のない虚言が、まことしやかにメディアで増幅され拡散しているとの思いがあるようです。それゆえか、氏の筆は、時折、少々過激な言い様になることもあります。
しかしながら、氏の考えの幹は “冷静に事実や実態を把握したうえでの穏当な判断” に支えられているように思います。
氏の思いのほか現実的な姿勢は、「極端(デジタル)」ではなく「中庸(アナログ)」の意義を認めます。
(p91より引用) 無責任な「何でも反対」派が、いつもこうして対極案をそのままスルーさせてきた。・・・ゼロか百かの議論では、一から九九は無視され、結局のところ「ゼロ」派が「百」派を援助してしまうのである。
日垣氏のもう一面、気概のフレーズです。
(p188より引用) マスコミなき時代から、この問題-悪法も法なのか-は、すこぶる重要なテーマであり続けてきた。・・・ソクラテスは、悪法も法なり、との思想を自ら実践したことになっている。・・・
しかし、ソクラテスは扇動者や権力に従順だったわけでは断じてない。悪法も法として遵守しながらも、悪法であることを明言し続けた。私も愚鈍なソクラテスでありたい。
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