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史実を歩く (吉村 昭)

 吉村昭氏の作品は、以前数冊読んだことがあります。
 テーマ選定の鋭さ、描写の緻密さ等、作品に対する一本気な姿勢が感じられて、私の好きな作家のひとりです。

 本書は、いくつかの作品の執筆に関わる吉村氏ならではのエピソードを氏自らが紹介したものです。改めて、吉村作品の厚みの根源を知らしめられます。

 まずは、歴史小説を執筆するにあたって、吉村氏の「事実への執着の強さ」を物語る言葉です。
 作品「桜田門外ノ変」の一場面の描写において、吉村氏の事実へのこだわりが端的に表れています。

(p84より引用) この場面の描写で、雪のことが気になった。・・・雪はいつやんだのか。・・・
 歴史研究者には雪のやんだ時刻などどうでもよいことだが、関を主人公に小説を書く私には、どうしても知っておかねばならぬ事柄であった。

 本作品のこの部分に限らず、「破獄」「長英逃亡」等々、作品すべての記述について、吉村氏は、可能な限り現場を訪れ、関連史料にあたり、関係者の方の話を聞くという地道かつ物凄い労力を費やしているのです。

 もうひとつ、吉村氏の作品に対する真摯さを物語る印象に残ったエピソードをご紹介します。
 先の「桜田門外ノ変」の執筆にあたって、2度原稿を書き直すに至った内情を語った部分です。

(p164より引用) 尊王攘夷論の根底にあるのは水戸藩領の海岸線だということを知った私は、初めてその社会思想を具体的に理解し、確実に手につかむことができた。
 それに気づかず文字をつらねてきた私の小説は、なんの意味もないのを知った。
 私は、二百五十二枚の原稿用紙を手に書斎から庭に出た。・・・
 いったいなにをしているのだ、と私は自らをなじるような思いであった。人には知られたくない、情けないような恥しい気持であった。泣き笑いという言葉があるが、私はにが笑いしながら原稿用紙を焼却炉に投げ入れ、百円ライターで火をつけた。

 表層に顕れる事実はもとより、その時代背景・思想背景も徹底的に調査し自らの頭で理解する、その納得のいく理解に至ってはじめて、吉村氏は筆を起こすのです。

(p61より引用) 私は、歴史上著名な人物を主人公にする小説を書くよりは、全く世に知られてはいないが、歴史に重要な係わりを持つ人物を調べ上げて書くのを好む。

 歴史に生き歴史を動かした人々すべてに対する温かな敬意。
 「調べ上げて」ということばに吉村氏らしさを感じます。


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