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月日の残像 (山田 太一)

(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)

 昨年(2014年)末の新聞の書評欄で、複数の選者が推薦トップ3に挙げていたので手に取ってみました。

 著者の山田太一氏は、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など話題をなったテレビドラマを数多く手掛けた脚本家です。
 本書は、山田氏の家族をはじめ、巡り会った人々との思い出を綴ったエッセイです。

 その中で、特に興味使いエピソードが紹介されていたのが、劇作家寺山修二氏との思い出を語った章でした。
 寺山氏の作品には、「母」が登場する俳句・詩・シナリオが数多くあるとのこと。それらで描かれている「母」は、寺山氏の実母とは全く異なっていたようです。その事実は、山田氏を混乱させました。

(p206より引用) 大学1年のとき、同級の寺山の作る句や歌が実生活と直結していないと知って、いぶかしんだ。

 寺山氏は、第一詩集「空には本」のあとがきにこう記しているそうです。

(p206より引用) 作意をもたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を戒めさせた

 山田氏は、この論にたちまち傾倒します。

(p206より引用) 事実と芸もなく付き合いしているような歌や句こそ恥ずべきものなのだといわれて、とても新鮮に思えた。「私小説の誠実」・・・というような考えに染まっていた高校生だった私には、嘘でいいんだ、作品は実生活がどうかというようなことで裁かれるべきではない、作品としていかに自立して存在しているかだけが問われるべきなんだという議論には、たちまち説得された。

 もうひとつ、印象に残ったところですが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんに触れた部分もあったので、書き留めておきましょう。
 「文字によらない文化媒体」としての「歌」の可能性、文化的事物の認識器官として「目」から「耳」への移行に言及しているくだりです。

(p242より引用) 歌をなめてはいけない。歌詞を読んで判断してはいけない。・・・まるごとの音楽を聞かなくてはいけない。
 それでも文字人間はつい歌詞に目が行ってしまう。そんな時に出会ったのが、サザンオールスターズだった。桑田さんが歌うのだが、なにをいっているのか聞きとれない。・・・それがよかった。そうなんだ、こうなんだ、こうして文字は後退して行くのだ。

 ご存知の方も多いと思いますが、山田太一氏の代表作「ふぞろいの林檎たち」のテーマ曲は「いとしのエリー」でしたね。



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