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伝統の創造力 (辻井 喬)

伝統の意味づけ

 著者の辻井喬氏は、ご存知のとおり西武流通グループの総帥堤清二氏です。実業家としての顔と小説家・詩人としての顔をもった堤氏ですが、経歴を辿ると辻井氏である方が本来の姿のようにも思えます。

 本書で辻井氏は、詩歌・小説に代表される日本文化の衰退を憂いつつ、その再生の道を探ります。キーコンセプトは「伝統」です。
 「伝統」の意味づけがポイントとなります。

 辻井氏は、「あとがき」に、日本における「伝統」と西欧における「伝統」の違いを示しています。

(p201より引用) わが国の場合、伝統はすでに完成された動かない型として静態的に認識されている場合が多いが、西欧の場合は現代との関係のなかで今も動いているもの、あるいは動態として理解されているという違いがあるようであった。

 ここでの伝統に対する姿勢は、以前このnoteでもご紹介した建築家安藤忠雄氏のコメントにもある部分重なります。安藤氏は、歴史的建造物も、単に「保存」するのではなく、現代において機能させることこそが「残す」意義だと語っています。

 日本の文学界においても「伝統」を旧態としない考えをもつ識者もいました。
 たとえば、文芸評論家篠田一士氏は「伝統」を以下のように定義しています。

(p100より引用) 伝統とは自由なる精神に働きかけて想像力を解放し、同時にそうして解放された想像力が確固とした形式をもつための求心力となる高貴なる理念である

 また、英文学者深瀬基寛氏は、「伝統」の意義を次のように説いています。

(p105より引用) 伝統の意義は、自らの内容項目の死滅を超えて新しい形へ自らを手渡すところの、運動の概念を含んだ、文化の形成力である

伝統の権威

 現在の文学の衰弱をみるにつけ、辻井氏はその原因の一つに文学界の事大主義・権威主義を挙げています。

(p43より引用) 彼らは、伝統とは三好行雄の指摘するように、「たえざる生成と変容の繰り返しとしての持続においてのみ真に伝統でありうるもの」であることを理解しない。伝統への働きかけ、あるいは破壊しようとする試みのなかでこそ伝統は生命力を獲得するものなのである、という法則から目を逸らす。

 現在の宗匠ぶった歌人・俳人・作家に対して、辻井氏はこう評しています。

(p44より引用) 宗匠たちは伝統を口にしていても、伝統と取組むという姿勢は持っていないように思われる。彼らにとって「伝統」は自らの権威の小道具に過ぎないのだ。そこでは伝統は形骸化し、文学の行為としての批評は姿を消す。

 このような状況においては、当然のごとく、以下のような「伝統芸術の誤解」も根強く残ります。

(p109より引用) いわゆる“伝統芸術”を伝統そのものと誤って認識し、その結果老いた宗匠の存在や家元制度に“伝統”を委ねる態度こそ、伝統を理解しない態度であり、そこから、権威主義や伝統の腐敗が生れるのである。

 「あとがき」に書かれている2点目の指摘です。

(p201より引用) わが国においては、伝統とは過去であり、それは一部の特権的な地位の人たちが掌握していると見られているのに対して、西欧では保守と伝統は異質の概念であり、伝統はむしろ大衆のなかに浸透している運動のエネルギーとして認識されているという違いである。

 以上のような「伝統」に係る論考のなかで、ちょっと異質に感じた立論の部分がありました。
 文化芸術のあらゆる分野において深い閉塞感・沈滞感が漂っているようにみえる、そのひとつの要因を現代のマーケットメカニズムに求めているところです。

(p53より引用) 多くの作家が、自分の書いた作品と、それを広告するための表現とのあいだに違和感を持っているのではないだろうか。いつの頃からかわが国の書籍販売の際に“帯”と呼ばれる広告文が本体に附加されるようになった。その“帯”は多数の刊行物のなかから商品としての書籍を極立たせるために担当者が苦労してコピーを作っているようだ。そこに現れるのは刊行物の内容とそれに市場適合性を附加させようとする意図との不協和音なのである。

 この事象は、作家の主張とプロモーションコンセプトとの乖離・断絶の現れでもあります。自己のメッセージ性を大事にする作家にとっては、ノイズの付加もしくは増幅となります。

 また、こういった話題性を重視する商業主義は、まだビジネスベースに乗っていない作家にとっては、かえって自らの作品を世に問う門戸が狭められることになります。


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