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マックス・ヴェーバー入門 (山之内 靖)

ヴェーバーの立ち位置

 ヴェーバーの社会科学に対する基本的姿勢は、純粋客観主義の否定でした。社会科学が人間に係るものである以上、また、人間の営みである歴史に存するものである以上、そういった対象・環境の制約を受けることを前提とすべきという立場です。

(p3より引用) しばしば誤解されてきたことですが、ヴェーバーの言う「価値自由」とは、社会科学にたずさわる人間は一切の価値判断にとらわれてはならず、ただひたすら客観的事実を追求すべきだ、といったものではまったくありません。そのような純粋客観主義は、むしろヴェーバーが排撃してやまないものでした。彼が論じたのは、社会科学のいかなる命題も、根本的には何らかの価値判断を前提とせざるを得ないということ、そしてこの点をはっきり自覚している必要があるということでした。純粋に客観的な立場などというものは、およそ歴史や文化をその研究対象のうちに含む社会科学においては存在しない。というのも、社会科学の営み自身が、特定の歴史的状況の内部におかれているからであり、特定の文化的時代環境の要請に対応するものだからである。

 この考え方は、同一の対象を扱っても、その価値判断基準が異なれば、そこから導き出される結果が異なるということを容認するものです。

 そういう学問の不確実性を正面から受け止めて学究に取り組むことをヴェーバーは求めています。
 このあたりの姿勢は、ヴェーバーの講演「職業としての学問」にも現れています。

暗黙の前提

 西林克彦氏の「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」という本にも「ステレオタイプの当てはめの弊害」が指摘されていました。過去の記憶・先入観等の「思い込み」や「受け入れやすい概念」が、ステレオタイプ的な「わかったつもり」の状態に誘導するとの仮説です。

 この本でも、従来からのヴェーバー研究の歪みの原因が、まさに同様の理由によるものとして説かれています。
 すなわち、著者の主張によると、ヴェーバーは「近代主義の批判者」であったにも関わらず、ある種のステレオタイプ的な立論により、多くの研究においては「近代主義者」であったとされているというのです。

(p54より引用) 読者には、近代世界に入って以降の人間の歴史を進化論的ないし弁証法的に、一定方向的な発展過程を歩むものとして理解してしまう解釈体系が暗黙のうちに前提されてしまっている。この前提があるために、ヴェーバーの作品について著者本来の意図とは異なったステロタイプ化されたスタンダードな解釈が成立してしまう。こうした不幸な歴史があったため、ヴェーバーの作品について、きわめて一面的な読み取りがなされてきた。

 本書は、従来の多数説・定説に対して一石を投じた挑戦の著作です。
 この本の論旨が正しいか否かは、従前の定説を理解していない私には判断できませんが、こういう思索の論争はその形式だけでも勉強になります。

意図せざる結果

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」におけるヴェーバーのひとつの主張は、以下のようなものです。

(p79より引用) 主観的に魂の救済を求めて、宗教的な救済へと向かっていく激しい情熱が、意図せざる形で客観的に、社会的・経済的・政治的な秩序の形成に向かっていく。そのズレこそが、人類のあらゆる歴史過程において重要な意味をもつ。

 「国富論」におけるアダム・スミスは、別のコンテクストで「意図せざる結果」に言及しています。

(p80より引用) 社会的な公共的善と秩序は、・・・道徳的意志の結果として初めて生まれるのではなく、むしろ、主観的には利己的な行為の「意図せざる結果」としてもたらされる。スミスが「見えざる手」の働きと述べたのは、まさしくこのことでした。

 しかしながら、同じく「意図せざる結果」を論点として取り上げながらも、両者の主張内容は大きく異なります。
 後者の代表選手としては、スミスに加え、ヘーゲルやマルクスをあげています。彼らの主張は以下のようなものです。

(p81より引用) スミスやヘーゲルやマルクスにとって、「意図せざる結果」という論理は、主観的な動機にかかわらず、あるいはイデオロギーとしての道徳性に関わりなしに、客観的な脈絡を主観の外側に生んでいく社会的メカニズムを捉えたものに他なりません。こうして、主観的世界の外側に生まれてくる客観的な過程を捉えるところに近代の社会科学が成立する・・・

 主観的立場から「意図せざる結果」であることは、主観に左右されない「客観的過程」が厳として存在するという考え方でしょう。主観的にどう思おうとその意図どおりにはならない、予めある結果が導きだされるように社会のメカニズムが稼働でしているという世界観です。
 まさに、国富論でアダム・スミスが示した立論-利己的に自分の利益の極大化を求めて起こす行動が、(意図せざる結果として)社会的な富の極大化という結果を達成してしまう-が分かりやすい例示です。

 他方、ヴェーバーの理解は対極的です。ヴェーバーは、(あえて簡略化して言えば、)文字通り「想定外の結果」を生ずるかもしれないという「運命性」を中心においていました。

(p81より引用) ヴェーバーが改革者たちの事業から生じた「予期せざる結果」「意図せざる結果」と言うときの脈絡は、近代社会科学の認識を可能にしたというような肯定的な意味をもつのではなく、まさしくそれとは逆に、人間の歴史の本源的な不確実性を示す運命性として語られています。

 ヴェーバーは、近代合理主義を万能なものとして支持したのではなく、むしろ運命性を前提をした「ペシミスティックなもの」として捉えていたのです。

カルヴィニズムと業績主義

 ヴェーバーの最も有名な著作といえば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」です。
 この著作において、ヴェーバーは、「営利の追求を敵視する禁欲的な中世プロテスタンティズムの経済倫理が、実は近代資本主義の生誕に大きく貢献した」との立論をしているというのが通説です。

 山之内氏は、プロテスタンティズム、特にカルヴィニズムの影響に着目し、その「被造物神化の拒否」の姿勢が、近代の功利主義的・合理主義的組織体系を導出したとの論旨を紹介しています。

(p89より引用) カルヴィニズムは近代的な組織原理に大きく作用した、とヴェーバーは言います。・・・カルヴィニズムは徹底した被造物神化の拒否を通じ、個人の内面的孤立化をラディカルに進めました。・・・カルヴィニズム的信条をもった人々の場合には、・・・感情面を中心に組織がつくられるわけではない。被造物的なものに意味を認めることは一切排除されているわけだから、組織をつくってゆく場合、集合体としての目標は、功利主義的な意味での効率性を通して、社会の一般的な豊かさに貢献する以外には設定することができなくなっている。すなわち、数学的、物理学的に計算できるような意味での社会への貢献ということ以外にはもはや目標はなく、感覚的な領域で対人的に貢献するということには、意味が与えられなくなってしまった。

 さらに、この流れで、組織における価値観、すなわち評価のメルクマール「業績」に移っていったというのです。

(p90より引用) こうして、この近代化された功利主義的社会組織の中では、アスクリプション(帰属主義)に代わってアチーヴメント(業績主義)が人々の評価基準になっていったのです。

進化ではなく循環

 先にもご紹介しましたが、ヴェーバーは「カルヴィニズム」と「近代官僚制」との堅い連関を指摘しています。

(p90より引用) カルヴィニズム的信条は、一方で功利主義の哲学をもたらし、他方で近代的な意味での合理的な組織を生みだす。近代官僚制はカルヴィニズムに始まる意識改革を通して、はじめて合理的な効率性をもった組織として生まれてきた。組織論の上でも、被造物神化の拒否という命題はそういう意味をもった、とヴェーバーは言うのです。

 「官僚制」は対立階層の政治的自立性を抑圧していきます。そのメカニズムをヴェーバーは、ライトゥルギー(対国家奉仕義務)という概念を用いて立論しました。

(p196より引用) 現代社会もまた、ある種のライトゥルギー国家体制に移行しつつある。・・・ペルシャに対抗して質実剛健なポリス市民文化を守ったギリシャが、ヘレニズムのライトゥルギー体制へと収斂していったように、プロテスタント的禁欲の精神に燃えた西欧市民文化もまた、とどめがたい官僚制化とともに全面的秩序化とシステム化の軌道へと吸いこまれてゆこうとしている。西欧文化は、いな、人類は、古代帝国の国家社会主義と類似の体制にたどりつき、その安定してはいるが抑圧的なシステムの中で、死の静寂を迎えるのであろうか。

 ここにおいて、ライトゥルギー体制すなわち社会の官僚化による停滞・抑圧が、20世紀思想の中心問題として認識されます。
 歴史は、改善という一方向に「進化」しているのではなく、まさに歴史は繰り返すといわれるように「循環」していると考えられるのです。

 さらに、ヴェーバーは、この循環の中で、普遍的な合理化は、自己破壊に向かう運命的な力に向かっていることを指摘しています。

(p218より引用) キリスト教系譜の「現世内的禁欲」は、苦難の意味づけに始まりながら、結果としては意味の分裂ないし意味喪失の状態をもたらすことになりました。その意味で「現世内的禁欲」の方向は自己破壊的なエネルギーをその中に抱えこんでいたということ、これがヴェーバーが言おうとしたことなのです。

 ヴェーバーの合理化論は、決してヨーロッパ近代の可能性を賛美する方向を志向していなかったということです。

(p220より引用) ヴェーバーはキリスト教文化が内包する合理化の普遍性を一貫して強調したのです。そして、その普遍性にこそ恐るべき運命的な力が宿っていること、ここに警告を発していたのです。



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