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職業としての学問 (マックス・ウェーバー)

学問への「情熱」

 先の「職業としての政治」に続いて、マックス・ウェーバーです。
 この本は、ミュンヘンの学生集会における講演が元で、その後、単行本として出版されたものです。当時のドイツ国内は第一次世界大戦直後の動揺期にあり、学生達は既存秩序に対する不信感を抱いていました。

 そういった学生を前にして、ウェーバーは熱弁を振います。
 まずは、学問を志す上での一途な姿勢、すなわち「情熱」についてです。

(p24より引用) 学問に生きる者は、独り自己の専門に閉ぢ籠もることによつてのみ、自分はここに後々にまで残るやうな仕事を成し遂げた、といふ恐らく生涯に二度とは味はれぬであらうやうな深い喜びを感ずることができる。・・・だからして、謂はばみづから遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打込んで例へば或る写本の或る箇処の正しい解釈をうることに夢中になるといつたことのできない人は、先づ学問には縁遠い人々である。

 ウェーバーは、重箱の隅をつつくに似たぐらいの専心を求めます。学問に生きる者には、このような一途な「情熱」が不可欠だと言います。そして、その情熱が学問上の「霊感」いわゆるインスピレーションを生み出します。

(p25より引用) 勿論情熱は所謂「霊感」を生み出す地盤であつて、この「霊感」といふものは学者にとつて決定的なものなのである。

 「霊感」は、何もせずして得られるものでもなく、また、得ようと思ったときに自在に得られるものでもありません。
 常日頃から全力で学問に取り組んでいる人のみが、それを得る資格を手にします。

(p25より引用) 実験室でもまた工場でも、何かしら有意義な結果を出すためにいつも或る-然もその場に適した-思ひ付きを必要とするのである。とは言へ、この思ひ付きといふものは無理にえようとしても駄目なものである。勿論それは単に機械的な計算などとは凡そ縁遠い。・・・
一般に思ひ付きといふものは精出して仕事をしてゐるやうなときに限つてあらはれる。

 Serendipityと同義ですね。
 ただ、この「霊感」も努力をしている人全てが得られるものではないようです。
 教師として大学に職を得ることも、「運」が大きく左右するのと同じく、「霊感」を得て偉大な業績を残すか否かも、かなりの部分「運」によると言います。この心情の昇華ができないと・・・ちょっと学問に生きるのも辛いです。

(p27より引用) 作業と情熱とが-そして特にこの両者が合体することによつて-思ひ付きを誘ひ出すのである。・・・然しそれは兎も角、かういつた「霊感」が与へられるか否かは謂はば運次第の事柄である。学問に生きる者はこの点でもかの僥倖の支配に甘んじねばならぬ。優れた学者でありながらよい思ひ付きをもちことができない人もあるのである。

学問の達成

 ウェーバーは芸術と学問とを比較してこう論じます。
 彼は、芸術には「進歩」がないと言います。「達成」された芸術は、時代を経ても、他に取って代わられたり時代遅れになったりしないという意味です。
 他方、学者の仕事は、「時代遅れになるが故に」常に進歩すべく運命づけられていると説きます。

(p31より引用) 学問の場合では、自分の仕事が十年経ち二十年経ちまた五十年経つうちにはやがて時代遅れになるといふことは誰でもが知つてゐるのである。これは学問上の仕事に共通の運命である。否、まさにここにこそ学問の意義は存在する。

 ひとつの学問上の業績は、それに続く学究の礎となるのです。

(p31より引用) 即ち学問上の「達成」は常に新しき「問題提出」を意味する。それは他によつて「打ち破られ」時代遅れとなることをむしろみづから欲するのである。

 そういった学問について、ウェーバーはどう意味づけしているのでしょうか。

(p60より引用) さて最後に諸君は問ふであらう、然らば一体学問は実践的また人格的なる生活に対して如何なる積極的寄与をなすか、と。かくて我々は再び学問の「職分」に関する問題に立帰るのである。まづ第一に当然考へられてよいのは、技術、つまり実生活において如何にすれば外界の事物や他人の行為を予測によつて支配できるか、といふことの知識である。・・・では第二の点を挙げよう。・・・即ち物事の考へ方、及びそのための道具並びに訓練がそれである。・・・然し幸なことには学問の仕事はこれでお仕舞になつた訳ではない。我々は更に第三のものに、即ち明晰といふことに、諸君を導くことができる。

 学問の寄与は、実生活に「明晰」を与えることだと言います。学問の求める論理的整合性や演繹的必然性に重きをおく姿勢を伝えます。

(p62より引用) ここにおいてか我々は、明晰といふことのために為しうる学問の最後の仕事に当面する、そして同時にこれがまた学問の為しうることの限界ともなるのである。即ち、これこれの実際上の立場はこれこれの究極の世界観上の根本態度-それは唯一のものでも、また種々の態度でもありうる-から内的整合を以つて、従つてまた自己欺瞞なしに、その本来の意味を辿つて導き出されるのであつて、決して他のこれこれの根本態度からは導き出されないといふこと、これを我々は諸君に言明しうるし、また言明しなくてはならない。

 この「明晰」さが、学問を学んだ者をして、「自己の行為に対する責任」を負わしめるのです。



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