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菜根譚―中国の処世訓 (湯浅 邦弘)

 「菜根譚」は以前、岩波文庫版を読んでみましたが、今度の本は概説書です。

 冒頭では、「菜根譚」の中国思想史における位置づけが説明されています。著者といわれている洪自誠は明代の役人であったので、基本的には儒教思想がベースではあります。が、道教・仏教的思想もかなりの程度漂っています。

(p20より引用) 『菜根譚』には、『老子』『荘子』などの道家系文献や仏教経典の思想も色濃く見えている。・・・だが、洪自誠は、ぎりぎりのところで踏みとどまり、道家や仏教とは一線を画している。枯れることをよしとしながら、枯れきってしまうことを戒めているのである。隠遁を進めながら、俗世と断絶してはならないと説くのである。

 この点、「三教の融合」が見えつつも、とはいえ現実社会との関わりを踏まえた儒家としての洪自誠の生涯を反映しているようです。

(p23より引用) 儒家の従でありながら、道教・仏教にも共鳴し、しかし、そこには決して埋没しない。このきわどい儒・仏・道の融合が『菜根譚』を深みのある処世の書として支えている。

 さて、「菜根譚」ですが、まさに前集・後集あわせて357条からなる「処世訓」なので、関心を惹くくだりは数多くありました。
 その中からいくつか覚えとして書き記しておきます。

 まずは、儒家思想のひとつの基本的なコンセプトである「中庸」について触れているフレーズです。

(p77より引用) 花は半開を看、酒は微酔に飲む。此の中に大いに佳趣有り。(後集123)

 これは、明代ならずとも現代でも感ずる風情です。

 もうひとつ、「拙の極意」との章から。

(p137より引用) 文は拙を以って進み、道は拙を以って成る。一の拙字に無限の意味有り

 「拙」であるからこそ謙虚であり、「拙」であるからこそ地道な努力を厭わない、「拙」に積極的な価値を認めた心に残る言葉です。

 その他にも、典型的な処世訓的な教えをいくつかご紹介します。

 ひとつめは、「心の持ちよう」について。「菜根譚」では釈迦のことばを引用して説いています。

(p241より引用) 人生の幸不幸の境界を作り出しているのは、他人や周囲のものごとではない。自分自身の心のあり方である。・・・
 人生の福境禍区は、皆想念より造成す。故に釈氏云う、「・・・一念清浄ならば、烈焔も池となり、・・・」

 この考え方は、中村天風氏「人生は心ひとつの置きどころ」と説いている姿勢と同一のものですね。

 そして、もうひとつ、私の心に強く響いた指摘は「信用」についてのくだりです。

(p243より引用) 人を信用することは、儒家思想の基本であり、教育の原点である。・・・まず人を信じてみようという心は、それだけで美しい。裏切られることもあるだろう。・・・しかし、信ずる、それ自体が美しい誠の心であるといえる。・・・とにかく相手を信じてみたという時点で、少なくとも自分だけは誠実であったと評価できるのである。・・・
 人を信ずる者は、人未だ必ずしも尽くは誠ならざるも、己は則ち独り誠なり。・・・

 これは、しっかりと心に留めておきたいと思います。

 最後に、著者が指摘する「菜根譚」の処世訓として広く読み継がれている要諦です。

(p288より引用) 『菜根譚』は全体を前集と後集に大別するのみで、章や見出しは一切付けていない。・・・各条をどのような意識で読み、そこからどのような処世の教訓を受け取るかは、読者の問題である。洪自誠は、そこに下手な介入はしないと、心に決めたのではなかろうか。

 時代に応じて、また、環境に応じて、「処世」の前提は相違・変遷していきます。そういう変化に対応した柔軟な解釈の「遊び」をもっていることが、時や国を超えた有益の書として伝えられている因なのでしょう。



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