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小惑星探査機 はやぶさの大冒険 (山根 一眞)

 今年(2010年)6月、日本は「はやぶさ」で沸き立ちました。

 3億キロの彼方にある小惑星イトカワまで「星のかけら」の採取に旅立ったのは2003年5月。それから7年。当初の計画より3年遅れて、「はやぶさ」は感動的な姿で地球に戻ってきました。私も当日は、その様子をTwitterのタイムラインで追いかけていました。

 本書は、「はやぶさ」プロジェクトの立ち上がり当初から取材を続けてきた山根一眞氏が記したドキュメントです。
 「1章 『はやぶさ』の旅立ち」からはじまって、「2章 3億キロ彼方へ」「3章 地球に戻ってきた日」「4章 88万人の同行者」「5章 女神の海をめざせ」「6章 「イトカワ」へようこそ」「7章 4時間だけの歓声」「8章 行方不明の冬」「9章 そうまでして君は」「10章 大星空から『さようなら』」、そして「11章 おかえりなさい」まで、綿密な記録でありながらもとても読みやすい口調で、「はやぶさ」プロジェクトの一部始終を紹介しています。

 ともかく、このプロジェクト、実態を知れば知るほどそのチャレンジの大きさに驚かされます。
 たとえば、対話の中での「はやぶさ」のプロジェクトマネージャ川口淳一郎氏の一言。

(p41より引用) 川口 「はやぶさ」が小惑星をピタリととらえるのは、東京から2万キロ離れたブラジルのサンパウロの空を飛んでいる体長5ミリの虫に、弾丸を命中させるようなものなんですよ。

 「いとかわ」の公転速度は秒速30㎞、時速約10万㎞、これに着陸させるのですから、その大変さは計り知れないものがあります。しかも3億㎞、電波が届くにも片道16分かかる遥か彼方の宇宙空間で実行するのです。

 当然、航海は波乱万丈、幾多の危機を「はやぶさ」は乗り越えていきました。

(p144より引用) 万一のときは、人の知恵と経験で乗り切るという「はやぶさ」ならではの危機回避モードがまた、発揮された。

 最後の危機は2009年、地球帰還軌道にはいっての終盤、「イオンエンジン」の完全停止でした。この絶体絶命の危機も「イオンエンジンのクロス運転」という秘中の切り札で回避しました。

(p239より引用) こうして航行が再開できた3日後、・・・川口さんが訪ねたのは、・・・道中安全の御利益もある神社だった。その名は、「中和神社」。
 ・・・クールなスーパーエンジニアである川口さんが神社詣でをしたとは意外だが、すべきことはすべてした、あとは地球帰還を祈るのみという時を迎えたのだ。

 まさに、「人事を尽して天命を待つ」という境地ですね。
 ここで、ちょっと閑話休題。
 私も(2010年当時から起算して)5年ほど前、コールセンタシステム構築のプロジェクトリーダのとき、(もちろん、スケールは全然違いますが・・・)ちょっと似たような経験があります。サービス開始の前日、一人現場を抜け出して熱田神宮(名古屋)にお参りに行きました。「なんとか無事にサービス開始できますように」という最後の神頼みでした。

 さて、いよいよ「はやぶさ」地球帰還の前日です。

(p264より引用) この日を迎えることができたのは、奇跡なのか、偶然なのか、努力のおかげなのか。・・・國中さんは?
「うーん、奇跡だとはいいたくないですよね。やっぱり努力でしょうね、努力です。とても『おもしろかった』ので、みんな一生懸命努力したんです

 何度となく起こったトラブル。それらを克服できた大きな要因のひとつは、スタッフの「想像力」だったと私は思います。
 どんな未知の事象が発生するか分らない中、「はやぶさ」には冗長化・自律制御機能といった数多くのフェールセーフの仕掛けが予め組み込まれていました。こういった想像力を駆使した蜘蛛の巣状の準備がなければ、長期間にわたる「はやぶさ」の宇宙航海や小惑星探査は不可能でした。

 そして、プロジェクトスタッフの「絶対にあきらめない」という強い気概。この気概が、自律機能をもった「はやぶさ」の意思と相呼応して、7年目の地球帰還という素晴らしい結末をもたらしたのです。

(p241より引用) 4月15日、川口さんは宇宙研のホームページに、最後の日が近づいている「はやぶさ」への思いを綴った一文を発表した。
 「はやぶさ」、そうまでして君は。
   プロジェクトマネージャー 川口淳一郎

 巻末、2010年6月13日、22時51分(日本時間)、大気圏に再突入した「はやぶさ」の姿は、あまりにも荘厳です。



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