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虫とゴリラ (養老 孟司・山極 寿一)

(注:本稿は、2021年に初投稿したものの再録です。)

 養老孟司さん山極寿一さんという気になるお二人の対談を書き起こした本とのことで手に取ってみました。

 期待どおり興味深い発想や指摘が満載でした。それらを順不同で書き留めておきます。

 まずは、山極さんが語る「人間の歴史が始まる契機」について。

(p67より引用) 山極 人間の祖先は、ゴリラやチンパンジーの棲む森を後にして、草原へ出て行ったんです。ゴリラにしても、チンパンジーにしても、彼らはそれぞれの五感でもって確かめられる食物を採取して、自分の手で採った食物を、その場所で食べていました。その中で、人間だけが、採取した食料を別の場所に「運んで」、他者に分配するという行動を始めます。他人が運んできた食物を食べるようになった。他人が採取して運んできたものを「食べる」というのは、他人を信用する、その食物を信用するということです。これが、情報化社会の始まりであると、僕は考えています。つまり、食物が「情報化」したわけですね。

 そして、山極さんの説明はこう続きます。

(p69より引用) 山極 人間の進化の歴史は、「弱みを強みに変える」ということを繰り返してきました。じつは、人間は弱い動物なんです。それを人間の社会力の源泉にしたからこそ、これほど大勢の人が寄り合いながら、類人猿にはない高い結束力を持ち得ることができたんだと思います。「情報社会」はそこから始まってるというふうに思います。

 なるほど、「食物→信用→社会性」という連関ですね。他者を “信用” することが人間ならではの “社会性”を創造する源 だった、これはなかなか気づかない視点です。

 続いては、養老さんが指摘する “今の世界の「本人」” について。
 養老さんが銀行に行ったとき「本人確認書類」の提示を求められました。対応している銀行員は、目の前にいる人が “養老さん本人” であることは知っているにもかかわらずです。

(p165より引用) 養老 だから、今や、システム化された情報世界の中に入っているのが本人であって、現物の本人は何かっていうと、ノイズですよ。システムからは扱えないんだから。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 こういった対話本は、ライブ感があって読んでいてとても面白いのですが、反面、取っ付きにくさを感じることがありますね。対話している当人同士にとっての “既知の了解事項” を前提として話が進んでいくと、第三者たる私(読者)は理解が追い付かなくなるのです。

 本書でも少なからずそういった場面がありました。ただ、これは致し方ないですね。いちいち部外者用に説明を加えていては「対話」の良さであるライブ感が消えてしまいます。

 対策は「読者」側にあります。対話している方々の知識や考え方を、前もって(ある程度)理解しておくことです。その方々の思考水準に少しでも近づいておくことです。
 これは、もちろん大変ですが、そうしようとするプロセス自体、とても楽しみなことでもありますね。



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